九州ツール 3rdステージ

 

ツール・ド・九州 第3ステージ 鹿児島の旅   平成26年(201491923

 

牧田 豊

 

 毎年1回の「日本海岸線自転車の旅」を続けて今年でもう24年になる。

 

既に本州と四国の海岸線は1周し、今年(平成26(2014)当時)は九州に取り掛かって3年目。九州は小倉駅からスタートして時計回りに大分県佐伯市佐伯駅までが平成24年(2012)、佐伯駅から鹿児島県志布志市志布志港までが平成25年(2013)、そして今年が志布志港から鹿児島県枕崎市枕崎駅までの旅となる。

 

 この海岸線の旅の「コースルール」は、海岸線にいちばん近い道を走るのが大原則。でも、都市部の入り組んだ港や半島の未舗装道路などは回避し、また1周できない半島(1本道の往復となる半島)なども対象外とするなど、そこは融通を利かせている。しかし、それでも地図で見れば立派な海岸線一周の旅となるのだ。

 

 

今回のツーリングルートは、

 

1日目」

 

  朝、フェリーさんふらわあ号で鹿児島県志布志港に到着。

 

国道(以下、R)220、R448、鹿児島県道(以下、県道)74、県道68、県道566で、大隅半島の太平洋側を走って佐多岬へ。

 

2日目」

 

  県道566、県道68、R269、県道68、R220で大隅半島の鹿児島湾側を走って北上し、県道26で桜島の北側半周をして桜島フェリーで鹿児島市へ。

 

3日目」

 

 

  県道20、県道217、県道219、R226、県道238で指宿、R269、R226、県道242で長崎鼻、県道243、R266で枕崎市へ。

 

 この3日間の前後に1日ずつの移動日(輪行日)をくっつけて5日間とし、日程は平成26919日(金)、20日(土)、21日(日)、22日(月)、23日(火:秋分の日)とした。

 

 19日、22日の休暇取得はお盆を休まず出勤による夏休みを充てた。そうやって職場の理解をもらい、なおかつ連休を絡めたので帰ってからの仕事山積みも緩和できる。この隙間狙いの夏休み取得がキモであり、海岸線の旅は毎年9月の連休にやっている。

 

 しかし今回は24年目にして初めての一人旅となってしまった。私の20数年来の自転車の相棒、中山一成さんが職場の事情で不参加。残念。本当に残念でならない。

 

 

919日(金):輪行と大阪観光とさんふらわあ号

 

1日と一晩かけて信州伊那市から鹿児島志布志市へ~

 

大阪プチ観光

 

 まずこの日は自宅(長野県伊那市)から自車でJR中央西線木曽福島駅(長野県木曽町)へドライブ。

 

車を木曽福島駅の契約駐車場に停めて、「特急しなの」で名古屋駅、「新幹線のぞみ」で新大阪駅、在来線で大阪駅まで輪行し、大阪駅で荷物を「手荷物預かり」に預けてからプチ大阪観光となった。

 

モダン焼き、適塾、大阪市中央公会堂、府立中之島図書館、と巡って半日大阪を楽しみ、大阪駅に戻って輪行を再開。

※左、適塾。右、大阪市中央公会堂

 

 地下鉄、南港ポートタウン線と乗り継いで「南港東駅」まで到着し、自転車を組み立てて2kmほど走って大阪南港に到着。

 

再び自転車を輪行袋に入れてチケットカウンターで予約していた乗船券を購入。

 

そうして大阪南港からはフェリー「さんふらわあ号」午後555分発に乗船し、夜の船旅で鹿児島県志布志港に翌朝20日に上陸したのだった。

 

 

920日(土):激坂劇場 鹿児島県道74号線

 

        ~志布志港から太平洋側を通って佐多岬へ~

 

輪行青年 長谷川さん

 

 「さんふらわあ号」は定刻に志布志港へ到着して無事九州に上陸となった。そのとき輪行袋を持つ青年に会い短い時間だったが話が出来た。

 

青年は長谷川豊さんと言った。彼は東京から夜行バスで京都へ。それから大阪南港までおよそ40㎞自転車で走ったとのこと。しかし、

 

「フェリー乗り場手前のかもめ大橋でサイコン(サイクルコンピュータ)落としちゃったんですよ~」

 

と、少しへこんでいた。

※さんふらわあ号と長谷川さん

 

 彼はこれから垂水市に向かいフェリーに乗って今日は鹿児島市泊まり、次は熊本へ輪行し、熊本から大分へと自転車で走り抜け、大分からは再びフェリーで大阪へ。あとは電車で輪行して東京まで帰るとのこと。

 

 私も日本海岸線の旅24年目の話をして、フェイスブックでの友達となった。

 

私の愛車スタンダール号(※1)について

 

「このフレームとかは25年使ってるよ」

 

「そんなに使えるんですか!?」

 

と驚く彼。

 

「クロモリのロードバイク憧れなんですけど高いんですよね。でもそんなに使えるなら考えてみようかな」

 

「これ(スタンダール号)作った時分はアルミが高くてクロモリの方が安かったんだけどね。クロモリのフレーム一生モノだからオススメだよ」

 

「へぇ、そうなんスか」

 

 クロモリとはクロームモリブリテン鋼という鉄のこと。現在自転車のフレームは安価な順に、アルミ、鉄(クロモリ)、カーボン、チタンといった素材が用いられている。長谷川さんのバイクはアルミフレームのクロスバイクだった。

 

「これ、安いですけど高いバイクを買わない分のお金を旅費に回そうって今は考えているんです」

 

「なるほど、それもアリだね」

 

 さて、スタンダール号を組み立ててさあ出発しようと見ると彼の自転車はまだ全く組み上がらない。まだ経験が浅いから仕方ないよな、なんて思っていると

 

「空気ポンプ貸してもらえますか」とのこと。

 

 どうやらパンクらしい。彼は持参のインフレーター(携帯用空気ポンプ)が使いこなせずに、私に助けを求めたのだ。

 

「ああ、いいよフレンチだよね」

 

と言って私のインフレータ(実はこいつも20年以上使っている)を貸してあげる。

 

見ると前輪が完全な空気抜け。

 

「パンクじゃないの?大丈夫?」

 

「なんか違うような気がするんですが…」

 

などと言いながら、私も手伝って空気を入れると何とか走れる状態となった。時計を見ると9時半を回っている。

 

「じゃ、長谷川くん、これから120㎞以上走らなきゃだから、オレ行くから」

 

「あ、すみません。ありがとうございました」

 

と言葉を交わして私は出発した。

 

 あとで長谷川くんのFBを見たら「パンクでした。何とか直せました」とのこと。おそらく大阪でサイコンを落とした衝撃時にリム打ちしたスローパンクではないか。と思った。

 

(リム打ち:空気圧があまいタイヤが段差などで強い衝撃を受けるとチューブが輪のフチ=リムに当たって穴が開く現象)

 

(※1:私の愛車は25年前にフルオーダーで作ったもので製作のテーマは「赤と黒」。フレーム、ハンドルは赤、それ以外はすべて黒で統一するカラーリングである。昔フランスにスタンダール(17821842)という文豪がいて、その代表作に「赤と黒」という作品がある。それにちなんでフレームのダウンチューブには「STENDHAL(スタンダール)」と入れてある。そのためSTENDHAL?? どこのメーカー?」とよく聞かれる)

 

 

食事処さくら

 

 志布志港からしばらくは平ら。風もなし。R220からR448へスイッチし、肝属川を渡ってから坂道が始まった。後で調べると内之浦集落へ行くまでに越えたピークは、わずか標高140mだった。

 

内之浦ではガソリンスタンドの兄ちゃんに「県道74は通れるか」を確認すると「うん、うん、通れますよ」とのこと。

 

 内之浦ロケットセンターまでは広くて良い道。しかし、斜度はかなりのもので標高265mのピークにロケットセンターの入り口があった。

 

それから肝付町岸良(きもつきちょうきしら)までは爽快な下り道。再び海岸線に出て標高23mまで下がる。それにしても交通量が少ない。

 

岸良の集落に入って間もなく「食事処さくら」の目新しい看板を発見。迷わずそちらに進路を取る。と、一見食堂には見えない田舎の「とりあえず食堂としてみました」的な民家に着いた。看板はすごく本格的なのに実態はものすごくカントリー。まるで海の家みたい。

 

 56人の家族連れが入っていたが、まもなくその皆さんは去り私一人となる。メニューは7つほど。「そば(ごはん付)500円」が目に入りそれをおかみさんに注文。

 

「ざるそばですか?」

 

「いえ、この“そば”で(指さす)」

 

「温かいのですね」

 

「はい。お願いします」

 

 食べながらこの先の県道74号について聞く。すると、

 

「どこまで行くの?」

 

とおかみさん。

 

「佐多岬の手前まで」

 

「ええ!? 今から行くと暗くなってしまうよ」

 

そこへ、どこからか帰ってきたご主人も加わって、

 

「こっから大浦までクルマで1時間はかかるからな。自転車だとなあ」

 

すると何やらご主人を迎えにきたらしいその知人もやって来て

 

「その先、辺塚(へつか)があってその先だろ。それに坂の斜度がきついで」

 

「私は長野県、信州から来たので坂は平気なんですけど」

 

ご主人は

 

「猿が何十匹も出るし、道は荒れてるし」

 

「猿とのトラブルとかあるんですか」

 

「いやいや、悪さはしねえ」

 

おかみさん

 

「国道行った方がいいよ」

 

でも、そうすると大隅半島の太平洋側を走れないから「日本列島海岸線の旅」のルールから外れちゃう。

 

「なんなら泊めてやってもいいぞ」

 

とご主人

 

「すみません。宿が決まってるんで」

 

「そうか。そんなら気を付けてな」

 

「ありがとうございます」

 

そうやって食事処さくらを出たのがちょうど午後1時。ハンサムなネコくんが見送ってくれた。

 448は岸良で左に90度左折する。しかし、それをうっかり見逃して真っすぐ県道5421.5㎞ほど走り、様子がおかしいので引返してR448に乗る。

 

「おかみさん達が言うとおりに国道行った方がいいのかなあ」

 

と迷っていたので左折を見落としたのだ。

 

迷いはR448と県道74の分岐点まで続いた。しかし、いよいよ右か(R448)左か(県道74)のポイントでハンドルは・・・左へ。私はあくまで「海岸線の旅」のルールに従い県道74にスイッチしたのだ。

 

こうしてあくまで大隅半島「一周」は継続実施となり、そこから激坂劇場県道74が開幕したのだった。

 

 

激坂劇場 鹿児島県道74 第1

 

 行けども行けども上り坂が終わらない。いや、それより驚いたのは、そこかしこで怒涛のごとく流れ出る水の豊富さ。

 

いくつか越えた川すべてがゴーゴーと轟音を立てて流れ落ち、川沿い(沢沿い)を延々と登るがいくら登っても水の轟音は小さくならない。木々に囲まれて視界がまったく効かない谷側からのドドドドドゴーゴーゴーザーザーザーという轟音がいつまでもいつまでも続くのだ。

 

慣れ親しんだ信州の山道は、登り始めの沢音が大きくとも、登るにつれて道は沢から離れて音は小さくなる。しかし、ここ大隅半島は轟く水音がどんなに登っても止まないのだ。ドドドドドゴーゴーゴーザーザーザーをずっと聞きながらのぺダリング。

 

 雨が降っていたのだろうか。路面は濡れ落ち葉が一面に広がり、さらにドングリとか椎の実が一面に広がっている。

 

特に一面に、圧倒的に広がっている椎の実を踏まずに進むことはできない。椎の実を700×25C(タイヤ)が踏めば、濡れた椎の実はつぶれることなくタイヤの高圧にはじかれ弾丸のごとく右へ左へと飛んでいく。

 

左右にとんだ椎の実はガードレールに命中して「カーン!」という金属音を残して道の反対側まで弾き返される。ふた漕ぎで「カーン!」三漕ぎで「カーン!」

 

 そうか、この豊富な木の実をサルたちは食べているんだな。と思い、たまにサル除けとして声を発する「っしゃー!」「っさー!」。これは信州の山奥を走るときと同じ。

 

 登って登ってペダルを踏みに踏んでやっとこピークに到達する。愛用の腕時計CASIO PROTREKの計測では標高630m(後にネットで調べたら663m)。

 

「ほぼ海抜0から600登ったかあ!!」

 

サル除けついでに大声を出す。でも誰もいない寂しい道。

 

 そこから下って下って大浦に着く。時刻は315分。

 

「お食事処さくら」のご主人が大浦まで車で1時間って言っていた。そこを2時間15分か。激坂だった割には悪くないタイムだな。距離もおそらくあと60㎞くらい。3時間半とみて、6時半か7時着か。確かに暗くなるけどそんなに悪くないな。

 

しかし、それにしても濡れ落ち葉が道いっぱいに広がっていてタイヤが滑る。下りで速度・距離がまったく稼げないのが痛い。これは大変なスピードダウンだ。

 なんて思いながらアップダウンの連続を越えていく。

 

 420分頃、辺塚(へつか)に着く。小さな小さな港の小さな集落。雨が強くなってきたのでカッパを着る。と、今日の宿「民宿なぎさ」から電話がくる。履歴を見ると午後426分。

 

「今、どこらですかぁ」

 

「辺塚と言うところにいます」

 

「佐多の辺塚ですかぁ」

 

「そうです」

 

実は辺塚と言う地名は大浦の手前、岸良にもあるのでこう聞かれた。

 

「それで、そちらにはかなり遅く着くと思いますので、すみませんがよろしくお願いします」

 

と、くれぐれも言うが

 

「ああ、はいはい」

 

っ感じでわかってんのかな?って感じ。

 

 そうやって電話が終わってカッパを着て、進む目の前にはまさに屏風のようにそびえ立つ山並み。普段見慣れた長野県茅野市から見上げる杖突峠より圧倒的に高い。

 

「まさか…、こいつを超えるんだよなぁ。お腹いっぱいになりそうだなぁ」

 

と独り言を言いながら、ついついニヤニヤしている自分がいる。激烈大隅半島、激坂劇場県道74の第2ラウンドが開始された。

 

 

 

激坂劇場 鹿児島県道74 第2

 

 再びほぼ海抜0mからの激坂登り。アーンド、再びドドドドドゴーゴーゴーザーザーザーの轟音をずっと聞きながらのぺダリング。

 

 それにしても道の勾配がきつい。あまりにきついので何箇所かスマホの角度計測アプリで道自体の角度を測る。と、なんと7度、8度、9度、10度が続発の連発!

 

あとで数学得意な甥にメールして「その角度で1m平行移動したら何センチ上がるか?」ってサイン・コサインしてもらったら、その答えは712㎝、814㎝、916㎝、1018㎝と判明(たまたま2cm刻みになったが法則性はないとのこと)。

 

 つまり、12%、14%、16%、18%の勾配が常に続くという激坂をあたしは1時間半ほどひたすら登り続け、その頂上は、これまた愛用のCASIO PROTREKでの計測で標高520m(後にネットで調べたら574m)となった。

 

「雪が降らないからこんな急勾配の坂作れるんだなあ。信州でこの坂(道)作ったらバカ野郎モノだなあ」と独り言。だって、途中にあったペアピンカーブなんかは出鱈目モノ! ペアピン1カーブで目測30m以上登らせちゃうんだもん。

あの斜度は、スキー場で言えば間違いなく上級者コース。登山道で言えば何回も折り返すつづら折りの道。建物で言えばエスカレーターが絶対必要。

 

※写真真ん中のフロントバッグの向こう側の矢印のところに標識があるのがわかりますか? これ人の背より大きい標識です。あまりにすごいヘアピンカーブなので記念撮影。

 

 

 

真っ暗闇で道を尋ねる

 

 そうしてなんとか激坂劇場県道74を閉幕させて県道68にスイッチ。さらにわかりにくい町道を走って県道564に入った時はもうあたりは真っ暗になっていた。

 

 県道564からまた町道に入って再び県道68に乗らなければならないのだが、もうまったくどの道がそれなのかぜんぜんわからない。暗いせいばかりではない。どんなに目を凝らしても目につく案内看板は一つもない。

 

 県道564をこれ以上走ることはまずいと判断。100mほど先に民家の明かりが見えたのでとりあえずそこで道順を聞くことにする。

 

 屋敷内に入ると明るいサッシの奥には夕餉の支度をするご婦人が一人。申し訳ないなぁ、なんだか悪いなぁ、と思いつつも玄関の引き戸を開ける。時間は午後630分。

 

「こんばんは、ごめんください」

 

「はーい」

 

若干(ほんの若干 ^^)ふっくらしたご婦人が明るい声と共に出てくる。

 

「あのー、申し訳ありません。ちょっと道を教えていただきたいんですが…」

 

「あらー、どうしたのー」

 

「佐多岬まで行きたいんですが、道順をお教えいただきたくて」

 

「あそう、なに?オートバイ?」

 

「自転車です」

 

「へー、自転車でぇ、珍しい。佐多岬って言えば、じゃ、伊座敷から行った方がええかな。だいぶ来すぎてるわ、ここはもう郡(こおり)やし、この先行き止まりやし」

 

 あれ? 喋りが関西弁?

 

「県道68号を行きたいんですが…」

 

「それなら、この道を戻るとハウス(ビニールハウス)があるからぁ、そこを左に入って、ずっと行くとT字路があるから左へ行って、そこからとにかく左へ左へって行けば…」

 

う~ん、かなり難しそう。と、そこへバスタオルを腰に巻いた奥さんとは対照的な痩せたご主人が風呂上がりホカホカ状態でやって来られた。

 

「あ、おとうさん、この人佐多岬に行きたいって言うんやけど、今からじゃ大変よね~」

 

「今からかぁ、厳しいのぅ」

 

「おとうさん、軽トラで送ってあげてよ。着替えて着替えて」

 

「そやのぅ」

 

 とその時私の携帯が鳴った。宿からの電話だ。

 

「あ、もしもし、ちょっと今、近くまで来ているんですけど…」

 

なんて話をしていたら奥さんが身振りで電話を替わって、と言っているので電話を差し出した。すると、

 

「ああ、もしもし、今この人から道順を聞かれたんやけどぉ。もうこれからは無理やと思うのでぇ、○○の郵便局までウチとこが送っていくんで、そこで引き継いでぇなぁ…」

 

と、どんどん話を進めてしまう。後で調べて分かったのだが、郵便局のあるのは竹之浦という所だった。

 

 そうこうしているとご主人が着替えて出て来て、ふたつみっつ奥さんと話をすると軽トラに向かい出した。

 

「荷物降ろさんと自転車積めないでしょ」

 

「そやなぁ、これ降ろすか」

 

「ええ」

 

「これもか」

 

「あ、それはいいみたい。丁度載せれそうやわ」

 

「そやなぁ」

 

「あの、そんな申し訳ないので…」なんて言うスキはまったくない。もうこうなったら乗せていただくほかにやりようがない。奥さん、ご主人の連係プレイの「はやわざ」に私の本日完走は消された。でも本当にありがたい。本当にいい人、いいご夫婦に出会えた。

 

『こういうのもいいよなぁ。ありがたいなぁ』

 

 私はそう思いながら軽トラに愛車スタンダール号を載せた。

 

 カッパを着たままの私。

 

「このままで乗っていいんですか」

 

「ええよ、ええよ、いつもわしもカッパのまま乗るし。いやぁ、ほんまに汚い軽トラやから」

 

「ありがとうございます。ありがとうございました」

 

奥さんに頭を下げて軽トラに乗車した。

 

 

 

松山さん

 

 真っ暗な道を軽トラが走る。

 

「ほら、これがハウスや。ここ曲がるんやけど、まあ、ここはわからんやろなあ」

 

「確かにこれはわからないですね。事前に町役場に県道68号が途中で途切れているけど通れるかメールで確認したんですけど、あっさり『通れます』って返信だけでしたよ」

 

「まあ、田舎やからそんなもんや。わしな、学校出てからずっと大阪にいてな、定年したからこっちに来てのんびりと釣りでもしようと思ったんやけど、なんやかんや結構忙しいわ」

 

「あ、それで言葉が九州っぽくなくて…」

 

「そやろ」

 

 お名前をうかがうと、松山義春さんとのこと。今はマンゴー農家の手伝いをしたりしておちおち釣りもできないほど忙しく暮らしているようだ。

 

「よくなぁ、道に迷ってうちに来るのよ。オートバイとかが多いけど。自転車は珍しいなあ」

 

 旅人と接するのは慣れているご様子。

 

「でもなぁ、この町もすぐなくなるんや」

 

「え? どうしてですか?」

 

その言葉に私はドキッとする。

 

「毎年10人くらい亡くなっててなぁ、でも子供がおらんのよ。このあたりずっと小学校ひとつもないんよ」

 

悲しげでもなく、感慨深げでもなく松山さんの声は淡々としていた。いや、むしろ微笑みを浮かべていた。

 

「そうなんですか」

 

この町の少子化は町の存続に直結しているのか…。

 

「ところで、どっから来たんですか」

 

「はい、住んでいるところは長野県、信州から来ましたが、今朝フェリーで志布志に着きまして、そこから大隅半島を一周するため太平洋側の県道74号ってのを走って来ました」

 

「ほお、ほんなら打詰(うちづめ)とか通ってきて」

 

「あ、そうです。公民館の前、通りました。」

 

「あのあたりは小鳥が多くてな、わしはたまに声聞きに行きますんや」

 

「あ、そうなんですかぁ」

 

 その時はそんな返事しかできなかった。しかし、そういえば道の角々にセキレイが必ずいて私に気が付くと道の前方へ前方へと逃げていく。そんなことが県道74ではずっと続いた。まるでセキレイがずっと私の道案内をしているかのように。

 

「それにしてもモノ凄い道でした」

 

「ああ、そやなぁ、あのあたりは人も通らんしなあ」

 

「クルマは…、4~5台しか会いませんでした。」

 

 会話の中で松山さんの電話番号をお聞きし、何らかのお礼をと告げると、

 

「ああ、いらんいらん、気にせんといて…」

 

…険しくくねった、ようやく通れるようなほっそーい道の角を軽トラは次々と左へ曲がっていく。

 

「いやぁ、それにしてもこの道はわからないですね。昼間でもちょっとこれは迷いますよ」

 

「そやな、ほんまにこんな道でいいんかな、って道やしなぁ」

 

 そうこうしているうちに県道68へのT字に突き当り左へ。まもなく荷物の(私の)引き渡し場所に到着した。

 

 松山さんの話ではここは全行程の3分の1の地点だから、迎えは少し待たなければ来ないだろうとのことだった。しかし、その話が終わるころには向かってくるライトが光り、すぐに積み荷を受け取る次の軽トラは到着した。

 

 

 

軽トラ爆走

 

 松山さんに深く頭を下げてお礼を言い、愛車を積み替え次の軽トラに乗車。2台目の軽トラは宿に向かって出発した。

 

「どうもすみません」

 

「なんだ、自転車だったかぁ。自転車なら辺塚で電話した時にもう間に合わんことがわかったのに」

 

「すみません。一応宿予約した時に自転車だって言いましたが」

 

「そうか。電話したのが確か426分の履歴だったな」

 

今夜お世話になる「民宿なぎさ」のご主人は見るからに「海の男・九州男児」といった感じの人。

 

「さっきの人は…」

 

「松山さんとおっしゃいましたが」

 

「そうか、見ない顔だなあ。おれはまずここら辺の人はみんな知っているけどなぁ」

 

「松山さん、定年して大阪から来たって言ってましたよ」

 

「そうだろ、知らん顔だったし、おれのことも知らんようだったし」

 

「それにしても早く来られましたね。松山さんはもう少しかかるって言ってましたよ」

 

「そらな、近道があるのよ」

 

と言うとにわかに停車し、偶然後ろからついて来たスズキ:ハスラーを前に行かせてからハスラーの行く道とは違う道へ左折した。

 

「今行ったクルマな、あっちの道行くと5㎞も余計に走らなきゃならん。こっちがずっと速いのよ」

 

「そうなんですか」

 

「どっから来たんだっけ」

 

「長野県、信州です。でも今日は…」

 

と、松山さんにお話ししたことを「激坂劇場県道74」の凄さも交えて話をした。

 

「ああ、あの道な。おれは大抵の町中選挙で走っとるが、辺塚とか向こうは行かんなぁ。あっちはまあ行かん」

 

 地元の人もめったに行かない道! どおりで路面が濡れ落ち葉だらけだった訳だ。そう言えば出会ったクルマだって数台だった。

 

 それにしても民宿なぎさのご主人の運転は荒い。車が早く着いたのは近道を使ったことだけがその原因ではなさそうだ。軽トラの取っ手に必死にしがみついていると民宿なぎさに到着した。

 

 ご主人は民宿の前の広い道を指さして

 

「な、さっきのクルマ、まだ来ないだろ。まだ3㎞くらい向こうにいるはずだ」

 

「そうですねぇ」

 

と、相槌を打ったが、どうやらご主人ここら辺の顔役らしい。もしかして町会議員かもしれないし、あのスズキ:ハスラーに誰が乗っているのかも承知して話をしている感じだった。

 

 

 

民宿なぎさ

 

 宿に着いたのは710分ころ。それから走行装備を解いて雨中走行後の対策をし、カッパ以外の着衣をすべて宿の200円洗濯機で洗濯し(衣服は洗濯機に入れる前に下洗い(手洗い)をする。雨の日は汚れがひどいので必ずやる。これが重要)、風呂(びっくりするほどぬるい、いや冷たいほどの風呂だった)に入って食卓に付いたのが8時だった。

 

 食卓は私一人分だけ。それは時間が遅いからではなく、お客が私一人だったから。

アレ?その客用食卓の私が座る座布団に5歳くらいの男の子がニコニコして座っている。

 

「ボクも食べるかぁ」

 

と声をかけると

 

「食べるぅ」

 

と言って割り箸を割って笑っている。

 

「そうかぁ。よし!食べるかぁ!」

 

「うん!」

 

 それを聞いていたおかみさん(お母さん)があわててやって来て、

 

「ダメ、ダメよ」

 

「ボクも食べるぅ。ボクも食べるぅ~」

 

その小怪獣は小脇に抱えられて撤去・撃退された。

 

「すみません」

 

そう言って新しい割り箸を持ってきたおかみさんにふと気が付くと、どうやらフィリピンの人のようだ。

 

 一人ビールをいただいていると

 

「テレビ見ますカ」

 

と言って、おかみさんはテレビをつけて奥へ。

 

テレビを見ながら箸を進めていると、奥で「うわーん」と泣き声が。あの小怪獣、悪さが過ぎて叱られたか。

 

 食事が終わり台所に首を突っ込み

 

「ごちそうさまでしたぁ」

 

と何度か声をかけるが反応なし。ま、仕方ないかと部屋へ入り洗濯物を干す。と階段をおかみさんが上ってきて

 

「明日の朝の食事は何時にしますカ」

 

「あ、ごちそうさまでした。明日は7時でお願いします」

 

見慣れないコマーシャルのテレビを見ながら床に就き、眠りに落ちたのは10時半だったろうか。雨が降っていたと思う。

 

【本日のデータ(サイクルコンピュータによる)】

 

 走行距離:117.3km

 

 平均時速:15.5km/h

 

 最高速度:59.0km/h

 

 走行時間:7時間3234秒(タイヤが回っていた時間)

 

所用時間:午前930分~午後720分(9時間50分:旅をした時間)

 

 

 

 松山さんのお宅から民宿なぎさまでネット(ルートラボ)で距離計測すると約9.5㎞。走れば4050分位だったろう。でも、あの道は昼間走ってもきっと迷ったな。

 

 それに、県道74の長い下り坂の、濡れ落ち葉と椎の実だらけ路面がホントに痛かった。もしもあれがなくて道が乾いていたらもっとスピードが出せて30分以上は稼げたのに……なんて…、「もしも」はないな。

 

 それにしてもだ!! 後日ルートラボで計測してみたら、この日の上りの獲得標高はなんと2797m!下りは2762m! 合わせて5559m!!

 

 日本の海岸線ルートで最も厳しく困難なルートは、鹿児島は大隅半島太平洋側の激坂劇場、鹿児島県道74号線です。間違いありません。絶対です。私はここに断言します。

 

 

 

 

 

 

 

921日(日):雨の錦江湾

 

        ~佐多岬から錦江湾岸を走り桜島から鹿児島市へ渡る~

 

85,000

 

 6時半に目が覚めた。

 

 窓の外を確認すると路面は湿っているが雨は上がっている。窓から見える海は曇天だが遠くの方に青空がわずかにのぞいていた。

 

 昨日の激闘の余韻が身体のこわばりとしてかすかに残るものの、今日の走りに不都合が起こる感じはみじんもない。

 

 7時に食堂へ降りる。8畳の広い座敷に食卓はぽつんとひとつ。見ると実にシンプルな朝食。ごはんに味噌汁、納豆に生卵、梅干しに昆布の佃煮。実に丁度いい感じ。

 

麦味噌の甘い味噌汁は南九州の味。私にとって貴重な体験の一杯。じっくりと味あわせていただいた。

 

 あれ、雨が降り始めている。あれ、けっこうしっかり降って来ちゃった。あ、今日の天気はどうなんだろう。女将さんが点けてくれたテレビはNHK。早速αボタンで今日の鹿児島の天気予報…、いやNHKは「気象情報」だった、を確認する。

 

 時間ごとの予想は夕方まで傘マーク。でも、予想降水量は1~2㎜。ああ、これなら降られても大したこたぁない。

 

あ、そうだ。鹿児島特有の気象情報を写真に撮ろう。と思いつく。リモコンのボタンを押して画面を切り替え、データが映るその瞬間を狙ってテレビ画面をカメラで撮影。

 

撮影したのは本日の「桜島の噴火・風向き」。桜島を真上から見た図が画面に出て火口から矢印で風向きが予報されている。よしよし、撮れた撮れた。お、いいぞ、噴煙は北東方面へ行く模様だ。追い風だし火山灰からも逃れられる。

 

などとその時は満足して引き続き朝食をいただいた。しかし、信州に帰ってきて写真をしっかり見たところ私が撮ったのは「桜島上空の風」情報の画面のみ。よくよく見ればその横に「桜島火山レベル」情報、その横に「桜島噴火情報」の項目があるではないか。

 

ああ、リモコン操作でこれらの情報見られたんだぁ。しまったあ、見たかったなあ。こいつは来年の課題としよう。

 

 準備を済ませてお勘定をお願いすると

 

8,500円」

 

と女将さん。

 

財布からお金を出して支払うと、女将さんが困ったように笑って少しだけつっかえながら言う。

 

8,500円だけど、領収書85,000円になっちゃってるの。間違いだからいらないよネ」

 

見ると確かに85,000円。こいつはいい思い出になると思い、

 

「あぁ、いいよ、このままいただいておきます」

 

と、85,000円の領収書をいただいた。別に悪意も他意もなかった。ただ、面白かっただけ。

 

でも、困った女将さんはご主人に電話したのだろう。支度をしていると間もなく軽トラが帰ってきた。

 

「お客さん、今書き換えるから」

 

「やっぱ、困りますか?」

 

「ああ、困る困る」

 

そう言うご主人は明らかに漁師であり、明らかに民宿の主人ではない。

 

すぐにぶっきらぼうな8,500円の領収書がやってきて、85,000円の領収書は回収された。まあ、これが正常なのだが。

 

 さて、玄関でカッパを着ようかな、と思ったら降っていない。こいつはラッキー。自転車に掛けておいたカッパをたたんで収納し、靴を履いて外に出て自転車をスタンバイ。

 

 ご主人にお願いして、私が主催する自転車クラブ「Cycle倶楽部R」の旅の儀式のひとつ「出発前に泊まった宿の前で写真を撮る」を今回も行った。

 

 この儀式は海岸線の旅を続ける23年間で欠かしたことがない儀式。

 

そのほかの儀式としては、「到着した駅の前で写真を撮る儀式」。これは例えば今回は志布志港フェリーターミナルで撮り、今年のゴール地点枕崎駅で撮るといったもの。

 

そしてもう一つが「走る道の県境で写真を撮る儀式」なのだが、今回は鹿児島県内しか走らないため県境撮影の儀式はない。

 

ご主人にお声掛けしてからカメラの準備をしていると、そこへ土地の人が来て何か打合せの話を始めた。これは聞き逃せない大隅半島最南端の薩摩弁!いや大隅弁か?

 

失礼ながらジワリとにじり寄って聞き耳を立てたところ…。予想通りやっぱり何を言っているのか、さっぱり聞き取れませんでした。

 

 さて、撮影儀式は滞りなく終了し、ご主人にあいさつして出発する。午前835分。

 

「ありがとうございました。佐多岬はこの道を左で良いんですね」

 

「そうだよ」

 

「どうもお世話になりました」

 

「ああ」

 

そう言って右手はこちらに上げつつ顔と意識はもう土地の人との相談に向かっている民宿さつきのご主人。この人は明らかに民宿の主人ではない。明らかに漁師だ。

 

 

 

最南端

 

漁師のご主人の見送りをいただき走り出すと5m前に猿がいる。思えば平成18年に地球上最北の猿を下北半島脇野沢で見たが、ここ九州最南端でも猿を見たことになった。

 

佐多岬への道は登り。しかし、昨日の坂に比べればどうということはない。3㎞ばかり走って駐車場にたどり着く。

 

 

 

大きなガジュマルの木の前に記念撮影用の看板があり、その日付が921日(今日)になっている。誰か人がいる。係員が来て日付を直したんだ。そんな気配はあるが姿は見えない。

 

そこから岬へはさらに200mほどのトンネルをくぐって行くのだが、トンネルの入り口には学校の机のようなものでしつらえたゲートがあり、自動車は進入不可となっている。ゲートは無人であり、私は自転車でトンネルを通過した。

 

トンネルを出るとまた駐車場になり、その端から歩道が伸びている。一瞬歩道にも銀輪を進めた。が、先を見るととても行けそうにない。歩道の入り口に自転車を停めて佐多岬へと歩き出す。

 

 森の中の薄暗い誰もいない歩道。不意にザザザザっ!と音がするので下を見る。と影が二つ風のように疾走していく。イノシシだ。森を抜けると両脇に低木が繁る道となり、数分歩くと九州最南端、佐多岬にたどり着いた。

 

さびしい曇り空。誰もいない。西の遠くに開聞岳が見える(とその時は思ったのだが、あとで地図を見ると佐多岬から見る開聞岳は北北西の位置。西と言うより北である)。

 到達写真を撮って九州最南端はこれにて完了。これ以上の「最南端」となると沖縄県波照間島の日本最南端に行かねばならぬ。ま、当分の間、最南端到達地はこことしておこう。

※右の写真は撮影用のカメラ置台。自然の枝を使って何気なく置いてある「優れもの!」。で、下の写真がその成果。被写体がno goodなのはご勘弁を。

※できれば佐多岬のような素敵なカメラ置台を、ふるさと伊那谷中に置きたいと思いました。

 

 

 

2日目の旅始まる

 

 当面の最南端からきびすを返し駐車場まで帰る途中に男性1人とすれ違う。民宿なぎさ関連の皆さん以外の人と本日初めて出会う。

 

 来た道を引き返し、民宿なぎさにたどり着くとまだ猿がいる。私が近づいてもどこ吹く風という態でまったく逃げない。それにしてもここはサルとヒトとどちらが多いのだろう。少なくとも今日それまでに私が出会ったのは、ヒト4、サル5、イノシシ2。時刻は950分ころ。

 

 猿たちと別れて民宿なぎさのご主人自慢の近道を選択して走る。すると昨夜は真っ暗で見えなかった綺麗な海岸線が広がる、と思ったらすぐに上り坂。

 

 まったく道案内が不親切な道を走りながらも、大きな道がひとつしかないため北に向かって走っていれば伊座敷に向かうことになる。昨日に比べたら全く常識的な坂を登りながら徒歩の人とすれ違った。

 

「こんにちは」

 

と通り抜けようとすると

 

「こんにちは。どこからですか?」

 

と聞かれた。

 

「今日は佐多岬から来ました」

 

「私は宗谷岬から来ました…」

 

 なに?宗谷岬からってことは、佐多岬がゴールってことか?!

 

 しかし、なぜだろう。その時は止まるタイミングを逸してその人とはそれっきりすれ違ってしまった。ほんの5分でも話をすれば良かった。でも、引き返してまで話をするのもなんか変だったし…。今思えば停車して話をすれば良かったなぁ。

 

坂を登り切ったあたりで左手に海が見え始める。鹿児島湾だ。そうしてその坂を下ったところが伊座敷。途中、2つ小学校を見かけたが2つとも廃校。松山さんの言うとおりだなあ、と思いつつ伊座敷でR269にスイッチし、左手に錦江湾(鹿児島湾)を見ながら北上する。

 

 11時ころだったろうか、雨が降ってきて上着だけカッパを来て走る。しばらくすると雨足が強くなり、「薩英戦争砲台跡」のミニパークの東屋に逃げ込んでカッパのズボンをはいた。場所は南大隅町。

 

 さて砲台跡はどこかな? と見渡すと案内看板ではもう少し先にある様子。自転車に乗って2300mで「薩英戦争砲台跡」を発見。見学開始。

 

 案内によると、錦江湾(鹿児島湾)に整備された数十の「お台場」の中でも、ここはもっともその当時の形を残しているとのこと。なるほど、確かに石垣も残っており雰囲気は十分だ。

 

ただ、現状は樹木が茂りすぎ、鹿児島湾を望めないことがなんとも残念。

 

そういえば津軽半島にも幕末のお台場が残っていて海岸線自転車の旅で立ち寄ったことがある。確か平成20年(2008)のこと。そこは暦年の風雪によって丸みを帯びた土塁に太い松が生い茂るのみだった。それに比べれば石造のダミーとはいえ、大砲が石垣の砲門に据えられたココは歴史マニアにとってはなかなかいいトコロ。

 

薩英戦争勃発のまさにその時、ここに配置された侍たちは対岸の鹿児島を中心に展開された陸と海の戦いを、遠くに大砲の音を聞き、その閃光を眺めていたのだろうか…。

 薩英戦争は今日と同じ雨の中だった。ここに配置された侍たちもここで雨に濡れていたことだろう。雨に打たれながらもしかしてここへ近寄るかもしれないイギリス艦隊をひたすら待ち続けていたのだろう。いや、沖に船影を認めた時に大砲を発射し、砲弾がまったく届かないことに愕然としたのではないか。結局、戦争に参加できず悔しがった侍がいたのではないか。…などと、例によって私の歴史妄想は爆発したのであった。

 

台場跡を去り、しばらくすると雨が弱まる。屋根のある自販機でコーラをいただきながらカッパのズボンを脱ぐ。降ったりやんだり今日はこんな天気だろうと思う。

 

 さて、それほどの空腹だとは言えないが、ここを過ぎると街が途切れる。時刻は1235分。さて、昼飯にしようか。

 

 

 

かもめ食堂

 

ふと右を見ると「かもめ食堂」という大きな看板に小さな食堂。小さな店に不釣り合いなほどのデカイ看板は街道筋のドライバーキャッチが目的か。しかしあまり飾り気はない。

 

 この時は雨も上がり青空が見えていた。何かしらこの土地らしいことが期待できそうな予感がし、すうっと駐車場に入り、カッパを脱いで自転車に掛けて、ガラガラと引き戸を開けて入る。すると、

 

「ああ、びっくりした。いらっしゃいませ」

 

と、誰もいない店内の客用テーブルに座っていた年配のおばちゃんが迎えてくれる。

 

「いいですか?」

 

「ええけど、びっくりしましたわぁ。何にも音がしなくて入ってくるから」

 

「音?」

 

「クルマの音とか、バイクの音とかねえ、なりますでしょ」

 

「ああ、自転車なんで音がしなかったんですよ」

 

「あれ、自転車ですか。珍しい。どこから来ましたか」

 

「今日は佐多岬から来ました。でも、住んでるところは長野県、信州から来ました」

 

おばちゃんが水を出してくれる。まずは駆け付け3杯ぐいぐいと水を飲み干す。雨の中だからそれほど汗もかいていないのだが、身体は水分を欲していた。

 

「えーっと。何にしようかな」

 

「伊勢海老味噌汁定食がおすすめですけん」

 

座ったカウンターの正面にあるこの店には多少不釣り合いな、小料理屋にでもありそうな木調のお品書きを見る。と、そのトップにあるのが伊勢海老味噌汁定食1,500円。

 

「ラーメンください」

 

「ああー、ラーメンはないんですよ」

 

「え?」

 

「ほら、あそこ見てください」

 

とみると、表の駐車場に「○○製麺」と横書きされた麺入れボックスが置いてある。

 

「麺がきれてしまったけん、ええっとあしたか、そう月曜日じゃないと来ないんですよ。麺が」

 

「はあ。」

 

「伊勢海老味噌汁定食にしなされ」

 

「はあ。」

 

「伊勢海老味噌汁定食がいいですけん」

 

「そこまで言うんなら、じゃ、伊勢海老味噌汁定食」

 

「はいはい、ありがとうございます」

 

と、このあたりからおばちゃんの口は止まることを知らなくなる。

 

「伊勢海老はですよ、こんな大きいのここいらじゃ112,000円はします。いいのが入るので。わたしの息子ですけどね、都会へ行っとりまして。ほんとうに久しぶりに帰ってきたと思うたら、いきなりですわ、かあちゃん社長にしてやるけん言いまして、月給40万で。わたしは産廃の社長なんですよ。息子ですけどね、焼酎の会社と、ハーレーダビッドソンの会社と、産廃の会社やってまして、産廃の会社は都城にあるんやけど、今は産廃はダメですけん。自転車乗ってきたんですか。自転車もええのですが、いい加減身体鍛えるのもええけん、ハーレー乗りませんか。ハーレー」

 

 はあ、ええ、まあ、と返すのが精一杯。けっしてやかましくなく、けっして騒音ではなく、でも淡々と秋空にたなびく長い長~い飛行機雲のようにおばちゃんの話は延々と続いて途切れることがない。

 

「兄ちゃん身体鍛えるのはええけん、ハーレーがいいですよ、ハーレー乗りなさい、ハーレー」

 

 自転車が好きで、自転車で旅することが好きで、けっして身体鍛錬のために乗っているわけではなく、

 

「ハーレー、ええですよハーレー。ハーレー買いなされ」

 

 ついぞ、20年以上続く私の自転車の旅の話はいっさいできませんでした。

 

「はい、おまちどうさま」

 

 と出てきた伊勢海老味噌汁定食。どんぶりにご飯。もう一つのどんぶりには、ぶつ切りの伊勢海老直径約6㎝がごろりと入った味噌汁。あとはサラダなのかな?いやおひたしなのかな?これで…1,500円…。ものすごくこれで1,500円!…なのか…。。。。

 

 伊勢海老味噌汁定食をカメラに収めるついでにその延長線上にいるおばちゃんも写る。と、

 

「ああ、写真送ってくれますか、わたしはオートバイの人なんかも写真送ってくれるけん。でも大変でしょう。これ、わたしの名刺です、これ」

 

 いや、まだ写真送るとは言ってない。

 

「わたしな、はちじゅうご、今85ですわ。31で息子を生んで、44で旦那が死んで、息子を何とか高校まで出して、高校出で息子は都会のクルマの修理に就職したと思ってたらあなた、ずっと帰って来ませんで、ぜんぜん帰って来ないけんフイに帰ってきたら、おい、かあちゃん社長にしてやるって…。兄ちゃん今食べてる伊勢海老な、こんな大きいの、112,000円やからな、10万も積んでもあなた8匹しか買われへん。ご飯それな、栗ご飯ですから。ちょっと汚れているように見えるけどな栗ご飯ですから。夏はなぁシロクマやりますけど、まぁ今年は雨がよう降って氷もよう出ませんでした。」

 

「ああ、鹿児島っていえばシロクマだよね」

 

 シロクマとは鹿児島県独特なかき氷。

 

「えい、シロクマ一生懸命売るんですよ」

 

 「えい」とは「はい」とか「ええ」っていう感じ。ここまできておばちゃんとの会話がようやく成り立った。

 

「シロクマ涼しくなってもう売れませんから、今からは4時に起きてですね、ここいらのおばちゃんたちは麺棒を使って蕎麦を打つんですよ」

 

「おばちゃんも打つの?」

 

「打つ」

 

「おばちゃん、オレも打つんだよ、蕎麦」

 

「男の人は力があるけん、でもおばちゃんたちは4時つえばしんどいけん。それでも50年気張りとおしたからな。蕎麦は長野県から取り寄せてる」

 

「ほお、やっぱ、蕎麦は信州でしょ」

 

「蕎麦がおいしいゆうたらな、福井県の敦賀言うところでな」

 

「ええ~、一番は信州でしょ」

 

「いや敦賀言うとこの蕎麦が一番。信州は2番目」

 

 絶対譲らない。

 

 

 

かもめ食堂 おばちゃんの自慢

 

「この写真な、これ、隣のわたしの家ですけど、息子がな、京都から宮大工連れてきて建ててくれましてな」

 

おばちゃんの指差す写真は、A1版横のポスター。まあ、何とも豪華絢爛の座敷が映し出され、その右下には焼酎の一升瓶が並んでいる。焼酎の宣伝用のポスターらしい。

 

 ああ、息子さんの話、本当の話なんだ。とその時いっさいの悪気もなく私はそう思った。

 

「これ見てな、」

 

 おばちゃんは調理場の奥からもう何度も人に見せたであろうアルバムとも呼べない小さな写真入れを持ってきた。

 

「いろいろの人とな写ってますけど、やっぱり千代の富士が一番ですわ」

 

 写真入れにはハガキサイズの写真が230枚。その数枚に息子さんと思われる恰幅の良い男性が、千代の富士、麻生太郎、安倍晋三など有名人とツーショットで写っている。

 

 焼酎のポスターを指しながら、

 

「わたしのこの家の隣に3階建ての家がありまして、そこにな、息子が麻生太郎つれて来ましてな、麻生太郎と3階で飲み会していきました。麻生太郎、ありゃ九州男児や。いい男ですわぁ。やっぱ九州男児じゃ。アントニオ猪木もつれて来てな。3人でその3階で飲み会していきました。アントニオ猪木と3人で」

 

 息子さんは故郷に錦を飾った自慢の息子らしい。誇らしいのだろうが意外と、本当に意外と淡々と語るおばちゃん。でも、おしゃべりはよどみなくとめどなく続く。

 

「この虎、この虎見せてあげますわ。これもなぁ京都の大きな社長さんが送ってくれましてなぁ」

 

 私が食べ終わったのを見て、おばちゃんは食堂から外へと私を誘う。食堂壁の隅に貼ってある写真のトラのはく製を見せてくれると言うのだ。

 

誘われるままに外に出て、おばちゃんの言うままに左を見ると上品な、そしていかにも手が入って洗練された小ぶり平屋の日本家屋がある。その右奥には白い3階建ても見える。駐車場に入った時には気が付かなかった。

 

「息子が京都から宮大工つれて来ましてなあ。」

 

 と入り口から入って平屋のサッシを大きく開くと、あのA1版横大きなポスターの座敷が現われた。なるほど、この座敷を撮影して焼酎のポスターにしたのか。こりゃ凄いわ。

 

「ほらぁ見てくれますか。これ、京都から宮大工つれてきまして…」

 

 座敷の真中にドでかい象牙が1本。今では絶対に手に入らないだろう。その両わきに何焼かは知らないが直径1mはあろうかという大きな皿が一対。左手前には一木彫りの大きな福禄寿。

 

そしておばちゃんがどうしても見せたかったトラは、でかい。でかい。鼻から尾までゆうに3メートルはありそうだ。とにかくでかい。見せたがるはずだ、でかい!

 

「こりゃ、すごいトラだねぇ。こりゃ見事だ」

 

「そうでしょう。京都の大きな会社の社長さんが送ってくれたけんねぇ」

 

 いつの話だろう。象牙といい、トラといいワシントン条約批准前だろうけど…。

 

満面の笑みを浮かべて虎を撫でて説明するおばちゃんにそれを聞くとまた話が長くなりそうだ。 あれ?!気が付けばもう1時間以上ここにいる。おいとましよう。おばちゃんの話もひと段落したようだし。

 

 1,500円をお支払して、かもめ食堂をあとにした。1348分。

 

「またな、また来てください。こんどはまたご馳走しますけん」

 う~ん、伊勢海老味噌汁定食1,500円かぁ。おばちゃんの話は面白かったけど、もう一度食べたいとは決して思わんなぁ。

 

 

 

桜島

 

走り出してしばらくすると再び雨足が強くなる。雨宿りしてカッパを着て走り出すとさらに猛烈な降り方に。

 

道路わきの空き小屋(どなたかの駐車場かな?)に飛び込んでしばしの避難。ついでにさっきの「かもめ食堂」の話をフェイスブックにアップしよう。そうすれば雨も弱まるだろう。

 

かもめ食堂のおばちゃんの話をFBにアップしたころ雨足が弱くなる。読み通り。

 

カメラ、スマホ、財布を小さなスーパーバッグ(最近は有料の店もあるスーパーで購入品を入れるあの袋)に包み込み、フロントバッグ(自転車のハンドルに着けるバッグ)は大きなスーパーバッグで丸ごと包み込む、もちろんバッグの中身もスーパーバッグで包んである。

 

これで、荷物が濡れることはまずない。再び走行開始。雨が降っても走りへの影響はまったくなし。いつものように防水対策は万全。がしかし、今回は少し様子が違っていた。

 

輪が跳ね上げるしぶきが真っ黒け。もちろん対向車が跳ね上げるしぶきも真っ黒け。自転車が走る道路左端のラインにはうねるような波模様の泥がず~っと続いている。

 

桜島の火山灰だ。

 

自転車のフレーム、ディレーラー、スプロケット等々が真っ黒な火山灰にまみれて、まるでちょっとしたダートを走っている感じ。

 

左側に鹿児島湾、正面11時の方向に山頂から煙を吐く桜島。雨にかすむ桜島はペダルを踏むごとに近づいてくる。

 

 鹿屋市に入り鹿屋市役所の看板が見えた鹿屋市高須でR269から県道68にスイッチ、海岸線を走る。

 

ん?? 県道68?? 県道68号といえば昨日佐多岬でいじめられた訳のわからない迷走県道ではないか。どうしてここで再び県道68なのだろう?なぜ? と思いつつ訳わかんないけど進むしかない。きっと鹿児島県大隅半島では訳あり県道路線に68号という「困ったちゃんネーム」を付けているに違いない。と勝手に決め込んで68号を北上する。

 

68号は間もなくR220にスイッチとなりこの辺りから桜島が大隅半島の山影で見えなくなってきた。

 

街が見えてくる。垂水市に入った。

 そういえば昨日、志布志港でであった長谷川君は昨日のうちに垂水市からフェリーで鹿児島市に渡るって言っていたなぁ、なんて思っていたらフェリー乗り場の看板が見える。と思ったら、桜島が見える。いよいよ桜島がでかくなってきた。

 

 雨と火山灰の泥の中を走ってT字路にぶつかる。すなわち、桜島にぶつかったわけだ。

 

数年前クルマの一人旅で九州を縦断した。その時は鹿児島市から桜島フェリーに乗って桜島に上陸し南側を半周して宮崎県へと向かった。ゆえに今回は北側を半周する。これで、曲がりなりにも桜島は1周したことになる。

 

 T字路を右折し、間もなく左折して県道26にスイッチ。いきなりの上り坂を登って「黒神埋没鳥居」へ向かう。

 「黒神埋没鳥居」は大正3年(1914)の大噴火で瞬く間に2mほど埋もれてしまい、今は上部の1mほどが地面から出ている歴史の証言者だ。以前のクルマ旅でも立ち寄ったので今回でここは2度目である。

 

愛車スタンダール号を鳥居の前に立てかけて写真を撮ってから、本日のクライマックス桜島港へ向けて走り出す。あと20㎞。暗くなる前に宿まで行けそうだ。問題なし。楽勝楽勝。

 

なんて思ったら甘かった。埋没鳥居に来るまでもアップダウンだったが、ここからもアップダウンの連続だったのだ。昨日の激坂劇場県道74の疲労がここにきてじわじわと出てくる感じ。でも、ここでへこたれてしまえばゴール後の美味しいビールが遠のくだけ。

 

登り切ってびゅーんと下って、すぐまた登ったと思えばびゅーんと下って、また登り…。こうなると「またかよぉ」と笑うしかない。いつの間にやら上り坂のべダルを踏みながらニヤニヤ笑っている自分がいた。

 

 

 

桜島フェリー

 

そんな感じを10㎞いや、もう少しばかり走っただろうか、いつの間にやら道路は海岸線にくっついて平坦となった。桜島港まで2㎞の看板が見えた。「ああ、やれやれ。あれ?桜島フェリー24時間運航? へー、すごいなあ」なんて思っているうちに桜島港への料金ゲートに到着。

 

 すっかり忘れていたが、桜島フェリーは利用者が多いから有料道路と同じく、先に料金ゲートで料金を支払ってから有料道路(すなわちフェリー)に乗り込むのだ。自転車は270円。

 

 防水対策した財布からやっとこどっこい270円を支払ってゲートを通過。ずうぅぅぅっと1列に100mほど並んでいる自動車たちの横をすい~~っと追い越して列の先頭へ。

 

いえいえこれはけっして割り込みなどの不正ではなく、人間や自転車の乗船はクルマとは別と言うフェリーにおけるルールによるもの。

 

 その証拠に近づいていくと乗船係員が自転車の私を遠くから手招きして「ここに来い」と指示を出してくる。自転車でフェリーに乗るのも果たして何回目だろう。自分で言うのもナンだが旅なれたもんだなぁと、ふと思う。

 

 たそがれ時の桜島港にフェリーが接岸する。と、ほとんど間を空けずにゲートが開いてガガンゴン、ガガンゴンと鉄板を踏みしめながら自動車が下船する。

 

甲板が空っぽになったことを確認すると係員から「自転車は先に行け」と視線・身振りで指示が出る。自動車の邪魔にならないように急いで桟橋を駆け抜けて、係員の指示に従い先頭の脇に自転車を立てかける。乗船完了。

 

 急いで客室デッキに駆け上がると目的のものを探す。あった、桜島フェリー名物、桜島フェリーうどん・そばの「やぶ金」。わずか10数分の乗船時間にもかかわらず立ち食い「うどん・そば」があるのが珍しいと秘密のケンミンショーでも紹介されたヤツだ。

 

 以前クルマで乗船した時はうどんをいただいた。ならば今回はそばにしよう。1日中雨と戦った体に染み入るかけそば450円。

 しかし、器の中には直径4㎜ほどの断面がまん丸い黒い麺。これはそばじゃない、かといってうどんでもない。えらい不思議なモンを食べさせていただきました。がしかし、実際アレは何だったんだろう。

  さて、ごちそうさまの後は短い時間だが船内を撮影探検。なんてことしているうちにもう鹿児島港に到着した。 

 

 急いで運搬デッキに降り、やはり先頭で下船する準備に入る。実にセーフティーに着岸するとすぐさまゲートが開かれる。邪魔にならないように駆け足で下船。次々と下船する車の流れから外れたところでスマホを取り出して本日の宿の位置確認。 

 

 本日の宿は前回の鹿児島泊でも利用した「東横イン鹿児島市天文館Ⅱ」。再度ここに泊まるのはある理由があるからだった。

 

 

東横イン鹿児島市天文館Ⅱ

 

 スマホで宿への道順を確認する。港からまっすぐ伸びる道を少し行くとその道に交差して市電が走っている。その市電に沿って左折して、あとはずっと市電にくっついて行けば通り沿いに宿はある。 

 

 確認したとおりに走ると間もなく「鹿児島県民誰もが愛してやまない山形屋デパート(by 秘密のケンミンショー)」が見えた。古風な威厳のあるビル前を通り過ぎ、市電に沿って右折。しばらく走ると右手に東横インの看板が見える。確か裏手が立体駐車場の入り口でそちらに回った方が良かったはず。 

 

 雨の鹿児島市内、最もにぎわう鹿児島一の繁華街天文館にずぶ濡れの自転車乗りが一人。しかも火山灰でどーろどろ。この場には異質な存在だけど、ま、旅は恥のかき捨てということで。

 

 裏手に回り午後627分、東横イン鹿児島市天文館Ⅱに着。すうっと入ると立体駐車場の案内係員が声をかけてくる。 

 

「お泊りですか?」 

 

「ええ、お世話になります」 

 

 その足でフロントへ行き自転車を停める場所があるか確認する。が「ありますが場所が遠い」とのこと。それならばたたんで部屋へ持って行くことにする。 

 

裏手へ戻ってドロドロの自転車のドロドロの火山灰を指でできる限り掻き落とす。しかし、濡れていてほとんど落ちない。明日、乾いてから落とすしかない。 

 

ちなみにドロドロの自転車は水洗いするのが一番だと思っている人がいるが私はそれには反対である。経験則から言って泥は乾ききってから柔らかい布で優しく落とすのが一番。何より簡単で、それでいてフレームを傷つけることはない。そうやってこのフレームを23年間使っている。

  

 自転車をばらして輪行袋に入れていると、先程の駐車場係員が声をかけてきた。

 

「はあ、こうやってたたむのですか」 

 

「ええ、こんな感じで荷物にして、今夜は部屋まで持って行きます」

 

「どちらから来られたんですか?」

 

「今日は佐多岬から」

 

「遠いところから自転車で!」

 

「住んでるところは長野県、信州から来ました」

 

「あ、そうですかぁ」

 

と、ここはいつものやり取りとなる。

 

「実はこちらのホテル、泊まらせていただくの2回目なんです」

 

「あ、そうでございますか。ありがとうございます」

 

「この近くにワカナっていう店ありますよね」

 

「ええ、あります」

 

「あの店にもう一度行きたいと思いましてね」

 

「ああ、いい店ですから。有名人なんかも大勢来るみたいですし」

 

「前泊まった時に偶然その店に入りましてね、だから今回もここに泊まらせてもらって行こうかなって」 

 

「ありがとうございます」

  

 などと言ううちに準備完了。

  

「じゃ、お世話になります」

 

 「ごゆっくりどうぞ」

 

 ドロドロのカッパ姿のままチェックインして今夜の部屋へ。シングルルーム314に入ると「こんなに狭かったけ?」と思うほどの狭さ。ま、仕方ない。

 

 すぐさまユニットバスに入って浴槽の中でカッパを脱ぎ、そのまま衣服も脱いでカッパと衣服と手足を洗う。とまあ、浴槽の中は一気に火山灰で真っ黒け!

  

 軽く体を洗ってから排水口からすべての火山灰を追い出してお湯を張る。狭いユニットバスだが徐々にお湯が満ちるにしたがって「ふーっ」と一息漏れる。やっぱり日本人は風呂だなあ。それにしても昨日の「民宿なぎさ」の風呂は冷たかったなあ。

  

 風呂から上がると荷物の整理、すべての荷物を防水用のスーパーバッグから取り出してベッドの上、机、イスと置けるところすべて、部屋中に広げて乾かす。これも雨の日の重要な儀式のひとつ。

  

 それが終わればジャージ、インナーシャツ、レーパン、アームカバー、靴下、手袋をコインランドリーへ持ち込んで洗濯。雨の日の靴下は大変汚れているので事前の予備洗い(手洗い)が重要となるが、今日のそれは湯船につかる前の浴槽内で済ませている。

  

 そうやって準備万端整え、フロントで傘を借りてあの店に向かったのは7時半頃だったろうか。徒歩23分、その店は「吾愛人(わかな)」という。

  

 

吾愛人

 

吾愛人に着くと56人の行列ができている。入り口の受付帳に名前を書き込む。と間もなく、

  

「お一人のマキタさま、カウンター席が空きましたのでご案内いたします」

 

 とあっさりと呼ばれてしまった。

  

店員は続けて言う。

 

 「ほかにお待ちのお客様、お一人のカウンター席ですので、お先にご案内してもよろしいでしょうか」

 

  私を先に案内することをきちんと説明するあたりがなんとも流石。

  

 先に待っていた皆さんに軽く会釈をしながら入店する。と。まったくの偶然であるが、案内された席は以前の来店時に座った席と同じ。へ~、こんなこともあるんだな。さて、メニューを見て、といっても私の注文はすでに決まっていた。

  

「薩摩おでん三種盛りと、きびなごの刺身、黒豚のしゃぶしゃぶ、をお願いします。あ、それと生ビール」

  

おでん3種は豚バラと牛筋のと~ろとろ串刺しアーンドゆで卵。きびなごの刺身はまろやかな酢味噌でいただき、黒豚のしゃぶしゃぶはお一人様用の鍋で優雅にしゃぶしゃぶする。

 

  いやはや、美味しいのは言うまでもないのだが、サービスや気遣いがこの店は本当に違う。きびなごの刺身や黒豚のしゃぶしゃぶなどはハーフサイズで、初めからお一人様用のメニューがそろっている。

 

特筆すべきは、1日走って生ビール吸飲マシーンと化した私の矢継ぎ早の

 

「ナマおかわり」

 

にも、注文してから10秒以内に必ず

 

「おまちどうさまでした」

 

と持って来てくれる。実はこれが何よりもありがたいし何よりも驚異的。

 

なぜなら、飲みたいときに飲みたいだけ飲みたいタイミングをまったく外すことなく生ビールをサーブする。そんな店があることを私はこの吾愛人で初めて知ったから。

 

吾愛人のサービスを知るまでは、2杯目3杯目のビールは、「早く来ないかな~」と待つのが当たり前と思っていた。しかし、吾愛人はそんなストレスさえ感じさせない。

 

 もちろん、追加注文した品もまったくストレスのない時間で持って来てくれる。味が抜群なのは言うまでもないのだが、それに加えてこのストレス・フリーのサービスがなによりも心地良く、なによりもスゴイのだ。

 

 馬鹿なビール飲みの戯言と言うなかれ、あの接客とあのサービスは凄い。私は鹿児島のことをほとんど知らない。でもあえて言おう、鹿児島市に行ったなら絶対に吾愛人に行くべきだ。

 

しかも、この吾愛人という店名を付けたのは長野県下伊那郡喬木村出身の児童文学者、椋鳩十というではないか。伊那谷とも因縁浅からぬ吾愛人なのである。

 

愛人(かな)とは奄美大島の方言で「愛しい人・大切な人」の意。昭和37年にこの店のご主人と親交のあった椋鳩十が「吾愛人(わかな)」と命名したとのことだった。

  それにしても一人での吾愛人は残念だった。私の20数年来の自転車の相棒、一成さんとこの店は来たかった。この店を紹介したかった。このことだけは返す返すも残念だ。

 

 などと思いながら名店を出て、そのままホテルに帰った。鹿児島市天文館「吾愛人」に再び行く機会はあるのだろうか。そんなことを思いながら眠りについたのは10時半頃だったろうか。

 

 あ、自転車を袋に入れる前に今日の記録を控えておかなかった。しまったなあ。

 

(翌22日朝、21日の記録を控えた)

 走行距離:107.3㎞

 平均速度:18.3㎞/h

  最高速度:56.2㎞/h

  走行時間:5時間50分43秒(タイヤが回っていた時間)

 所用時間:午前836分~午後627分(9時間51分:旅をした時間)

 走行距離は103%とすると、110.5㎞となる。

 

 

922日(月)薩摩を走る

 ~錦江湾越しに大隅半島を眺めながら薩摩半島を南へ~

  

西郷隆盛と大久保利通

 

 6時半に目が覚める。天候は曇り。

 

 チェックインの時、7時から9時はエレベーターが大変込み合うので大きな荷物(輪行袋)は7時前にロビーに降ろしておくように言われていた。ほかの荷物はさておき、7時前には輪行袋を降ろさねば。

 

 雨に見舞われると荷物周りのパッケージには時間がかかる。少しぼーっとしていたらもう7時になってしまい、あわてて輪行袋を担いで1階へ。所定の位置に自転車を(輪行袋を)おいてそのまま朝食へ。

 

 東横イン鹿児島市天文館Ⅱは無料の朝食サービスがあるのがうれしい。ご飯とみそ汁スクランブルエッグと炒めたソーセージ。充分である。

 

 ゆっくり食事を済ませてからパッケージに取り掛かり、着替えて、自転車を組み立てて、 フロントのお姉さんに頼んで宿前撮影の儀式を済ませ、出発しようとしたら、あれっ!? 9時だ! いつもなら830分ころ発が通常なのに。オレはいったい何をやっていたのだ…?!

 

ああ、そうか。火山灰だ。そうだ、自転車に絡みついた桜島の火山灰の除去に手こずったんだ…。

 

特にタイヤ、リム周辺に絡みついた火山灰がブレーキの効きにかかわる状況だったんだ。

 

それで、そのあたりをまずは指で全体を、携帯工具を包む手ぬぐいの切れ端で隅々まで念入りに。

 

続いてフレーム、ハンドル周りをふき取って、さらに火山灰の細かい埃のせいでライトがゆるゆると取れそうになっていてそのセッティング。

 

そうか、桜島の洗礼を受けた30分だったんだ。

 ※鹿児島県下一の繁華街、天文館でこの違和感。でも儀式は儀式。

 

 鹿児島市内にある西郷さんの銅像などは以前見たのでパスして、進行方向にある史跡に少しだけ立ち寄った。まあ、史跡と言っても「大久保利通の生い立ちの地」「西郷隆盛の出生の地」であり、そこは普通の公園に案内看板があるだけ。「大久保利通出生の地」などは道の角に標柱があるだけ。(大久保は幼少期に引っ越している)

 

 でも、歴史マニアにはそれで十分であり実に満足。なぜなら西郷と大久保が近所で幼馴染だったことは有名だが、その距離感を現場で感じ取れることが何よりも重要であり、うれしいことなのだ。

 

 「大久保利通の生い立ちの地」と「西郷隆盛の出生の地」は、自転車でつーっとゆっくり走れば1分もかからない近所である。しかも、すぐ近くの見通しの効く橋からは桜島が見える。つまりビルのない当時ならば西郷と大久保の家から間違いなく桜島は見えていたのだ。この体感は現場でしか味わえない。

 

「この近さは子どもにとっても『すぐそこ』だよなぁ。西郷と大久保は本当に近所の幼馴染だったんだなぁ」

 

この実感が何より貴重。今回鹿児島市内での歴史的スポットはこれだけだった。しかし、重度の歴史マニア(ヲタク)にとっては満足満足、大満足なのだった。

 

 

薩摩半島を南下

 

海岸線走破という基本に従って海岸線にいちばん近い道を走るわけだが、地元民しかわからない道を走ることは困難(特に都市部の海岸線は無理)なので、ある程度の妥協はせざるを得ない。

 

そんな事情で今回は地図に「産業道路」と名称が書かれている県道21710万分の1の地図に載る道では最も海岸寄り)を南下する。「産業道路」というその名のとおりなのだろうか、月曜日の朝、片道2車線は莫大な交通量で極めて騒々しく、それから抜け出すには小一時間走らねばならなかった。

 

 午前10時を回ったころから車線とともに交通量も減り、産業道路はR226に合流して道がだんだんと田舎の風情となり、R226は海岸線にくっついて左に海を見ながらのぺダリングとなった。

 

しばらくすると道路幅が狭くカーブが多いため、大型トレーラーが私を抜けずにイライラしながらついて来るのがわかった。

 

大型トレーラーが時速2530㎞の自転車についていくのではイライラにもなろう。しかし、道路左側にまったく逃げ込むスペースがないため、こちらも停まることもかなわず、道を譲ることもできなかった。余裕のない作りの古く狭い国道ではよくハマる嫌なパターンだ。伊豆半島東海岸の国道135号がこれと同じ、いや~な道だったことを思い出す。

 

しばらくのあいだ大型トレーラーに追いまくられながら走ったが、わずかな直線で黄色いセンターラインを大幅に超えながら轟音と共にトレーラーは追い越して行った。と同時に大型トレーラーに“フタをされていた”かっこうの後続車が続々と私を追い越して行く。

 

たまにあるのだがこんな状態は本当に緊張する。狭い道で後続車に先を譲りたくても自転車でさえ停めるスペースがまったくない道が続くのは本当にきついのだ。

 

 鹿児島湾展望スペース的なところがありやっと停車。鹿児島湾の写真を撮る。天候は曇り。11時半ころ。

 

海に向かって左手の奥、10時の方向に煙を吐く桜島。11時の方向には低い雲の上に山塊を突き出す大隅半島。右手2時の方向には…、地図で確認すると指宿温泉手前の魚見岳(214.8m)らしい。

 

…ん?その魚見岳に重なったその奥に大きな山塊があるような…よく見えない。

 

まるで幻の島でもあるような雰囲気で遠くに霞んで見える。が、その山塊こそが激坂劇場県道74を擁する大隅半島の先端だった。

 

「さらば桜島、また逢う日まで。さらば大隅半島、また逢うにはちと覚悟がいるな」とフェイスブックにアップする。

 

 篤姫の出身地、今和泉にある道の駅「彩花菜館(さかなかん、と看板が出ていた)」で牛乳をいただいてすぐに走りだし、わずかに勾配を登ったところでR226から県道238にスイッチ。

 

するとすぐにJR指宿線を跨線橋で越える。と、なにやらお琴の音が聞こえてくる。和風の建物がある。その音色はどうやら割烹料理屋のコマーシャルBGM的な感じ。

 

近づいて店の看板を見ると「純手打そば 信州庵」。

 

う~ん、なんかしっくりこない。何か違和感がある。なにか軽い胸やけのような。20年前の恥を思い出してしまったような。さほど上手くもないジョークにお義理で「いいね!」をしてしまった後悔のような。

 

「ん~~。手打ちは手打ちでいいじゃね~か。純ってなんだ?純って」

 

蕎麦なんざ、ササッと打って、スパッと茹でて、ガバッと喰やぁいいのえ。が信条の蕎麦打ちをする信州人の私にとって上品なお琴の音色と蕎麦がどうにも融合しないし、「純手打」という言葉がいかにもインチキ臭く聞こえてならない。

 

こんな誠に勝手で誠に失礼な決めつけは「純手打そば 信州庵」さんにとっては、まったくもって大きなお世話、というより迷惑千万の営業妨害にほかならないだろう…。しかも、信州庵ということは、おそらくは信州そばをリスペクトしてくれているのだ。

 

が、しかし…。「純」がなぁ、「純」なんだよなぁ、「手打そば 信州庵」でいいと思うんだけどなぁ。

 

と言うわけで、どうしても残念な印象が残ってしまった「純手打そば 信州庵」さんなのであった。ごめんなさい。

(今思うと、無性に信州庵さんの「純手打ちそば」を食べてみたいなぁ)

 

 

指宿~長崎鼻~さつま白波

 

海岸線の県道238で指宿温泉を目指す。車が少なくて実に良い。潮の香りの風を受け波の音を聞きながらのクルージング。海岸線の静かな道を走ることこそが海岸線の旅の楽しみだ。

 

先ほど遠くに見えた魚見岳のふもとを半周するように走ると指宿の文字を載せる看板が現れてくる。

 

明るいイメージの街を走ると間もなく「砂むし会館 砂楽(さらく)荘」前に到着。有名な指宿温泉の砂風呂に入れる施設である。

 

しかし、今回は砂風呂には入らない。「せっかく遠い指宿まで来て砂風呂に入らないなんて!」というご指摘もあろうが、このまま砂風呂に入ってしまえばそのあと自転車に乗るのがモノ凄くつらくなる。まだ50kmは走らなければならないのだ。

 

実は私は平成22年にここへ来て一度砂風呂に入っているので未練はない。もし複数人の旅だったら指宿をゴールに設定し、みんなで砂風呂に入ったはずだ。

 

でも、今回は一人旅の気ままさで指宿温泉砂風呂はパス。今回は日本鉄道南端の終着・始発駅のある枕崎市泊を優先したのだった。

 

砂むし会館砂楽荘と温泉がわき出て湯気が上がる海岸を写真に収め、さて、いい時間だからお昼にしよう。と見渡せばラーメンの桃太郎旗が目にとまる。

 

「らーめん 黒豚餃子 めん屋 田舎もん」の看板のある店に入りラーメン・餃子をいただいて指宿をあとにする。

 

なるべく海岸線を走るべく海沿いに南下すると山川港が見えてきた。すると「山川温泉 砂風呂」の看板も出始める。ああそうか、指宿ばかり有名だが山川にも砂風呂があるって、昔テレビで見たことあったなあ。

 

 などと考えていたせいだろうか、本当は山川の街中を通って行くつもりだったのが、なぜか山川駅を過ぎてすぐ右折してしまった。

 

間もなくR226に合流してしまい、その時初めて

 

「あ、思っていた道と違うところ通ってきちゃった」

 

と気が付いたがあとの祭り。

 

「ま、いいか」

 

と軽く切り替えて、薩摩半島最南端の長崎鼻を目指す。

 

交通量の少ない県道242を南下して長崎鼻に到着すれば意外と観光客が多い。あの寂し過ぎる佐多岬とは大違いだ。

 

「皆さん!九州最南端、大隅半島の佐多岬に皆さんは行かれたのでしょうか。行っていないのでしたら、どうか佐多岬にも行ってください。皆さんが行かなければ佐多岬がさびし過ぎます。どうか、どうかお願いします。佐多岬にも行ってください!」

 

と心の中で叫びつつ、長崎鼻に立つ。

 

 南を向けば10時から11時の方向遠くに大隅半島と佐多岬。330分の方向間近に開聞岳。

 

遠くにかすむ佐多岬はあんなに端っこだからさびしい思いをしているんだなぁ。昨日の朝はあそこにいたんだなぁ。長崎鼻は指宿とかに近いからきっとみんなが来てくれるんだなぁ。開聞岳は綺麗だなぁ。

 

 ぼーっと水平線を眺めながら、ぼーっと思う。ぼーっと午後210分ころ。ぼー。

 開聞岳北側の山すそを半周するように走り、250分ころに初めて開聞岳を西側から眺める。

 

昨日、佐多岬で初めて開聞岳を見てからずっと、南側からもしくは東側から見ていたが、これでほぼ全方位から眺めたことになる。しかしそれにしても円錐形の開聞岳。どこから見てもそのシルエットは変わらずに美しい。

 

 枕崎まであと40㎞ほど。R226をひたすら西進していくと、大きな背の高い貯水槽のような、もしくは、でかいキノコのような建物に「白波」と書いてあるのが見えた。

 

近づくと工場のようだ。入口の大きな看板には「さつま白波 薩摩酒造株式会社 頴娃蒸留所」と書いてある。

 

 おお、「さつま白波」なら知っている。焼酎の全国区ブランドではないか。それにしてもこんな九州の南端で、それにしてもこんな田舎で作られているとは知らなかった。それにしても「頴娃」ってなんて読むんだ?

 

 スマホで検索すると頴娃は「えい」と読みこのあたりの地名とのこと。初めて見る珍しい字にその由来が気になった。しかし、スマホで検索してもその由来は発見できなかった。残念。

「今夜はこいつをいただきます」

 

とフェイスブックに愛車を立てかけた看板の写真をアップして走り出す。 

 

 

同郷の古川少年 

 

あとはゆるいアップダウンの道を枕崎へ。次第に街が見えてきて枕崎に着いたのは午後4時少し前だった。

 

さて、だいたい予想した時間に着いた。急いで計画通りお土産を買わなければ。ここで買い損なうとお土産を買うところがない。職場の皆さんへのお土産を忘れることは絶対にできないのだから。

 

 街中を走ると「地場産業振興センター」を矢印で案内する看板が見え始めた。よし、そこに行こう。それから2つほどあった「地場産業振興センター」の看板に従って港に向かう。しかし、港に出た突き当りのT字路には看板がない。右か?左か?どっちへ行けば良いのだ??

 

「枕崎 詰めが甘いよ 枕崎」

 

とぼやきながら、雰囲気的に「右」と決めて走る。が、相変わらず看板はない。疑いながらもしばらく走ると向こうの方にちょっと寂しく桃太郎旗が数本立っている。さらに近づくと小さな入口に「売店」と赤い文字が。

 

 外観はまったく何かの行政事務所。それが「地場産業振興センター」だった。

 

その小さな玄関を入ると港町っぽいお土産売り場が展開している。よかった。間に合った。これでお土産が買える。

 

 お土産を買って宅配の手続きが終わり、やれやれと気を楽にしてあらためて店内を見回すと、奥の方に何やら展示室がある。行ってみると戦艦大和に関する展示だった。

 

ああそうか。大和は枕崎のずーっとずーっと沖合で沈没したのか。などと、まったく不確かな記憶とともに、そう多くない展示物と解説文を見学した。

 

ふと見るとその中に少年兵の遺影があり、「大和最年少戦死者 古川嘉之(よしゆき)さんの話」とあり、その冒頭は「昭和5年3月長野県岡谷市に生まれた古川少年は…」と始まっている。

 

えっ?!最年少戦死者が岡谷市の出身?! 驚いた。なぜなら私の住む伊那市と岡谷市は全国レベルで言えば同郷と言っても差し支えない。町村を飛ばせば隣の市なのだ。

 

しかも、戦艦大和と言えば大和最後の艦長、有賀幸作中将は長野県上伊那郡辰野町(私の住む伊那市は上伊那地方の中心都市)の出身であり、この話は伊那の歴史好きにとって「知らぬは恥」というほどの地元ネタなのだ。しかし、最年少戦死者が辰野町のまさに隣の岡谷市出身とは知らなかった。

 

古川嘉之少年がなぜ特別にここに展示されているのか。その理由をこの展示からうかがうことはできなかった。しかし、151ヵ月で戦没した古川少年の遺影があまりにもあどけなく胸に刺さることは間違いなかった。

 

「有賀艦長と同郷であることを、もしかして古川少年は誇りに思っていたのかな…」

 

とふと思い、その遺影に手を合わせた。

 

 

日本最南端 枕崎駅

 

 使わなくなった何かの行政事務所跡を再利用したと思えるような「地場産業振興センター」をあとにしようとしたとき、売店の男性店員さんが駐車場の桃太郎旗を片づけていた。あ、そうだ。

 

「こんにちは」

 

「あ、こんにちは、いらっしゃいませ」

 

「今夜、枕崎に泊まらせてもらうんですが、なんかいいお店紹介してもらえませんか」

 

「ああ、それなら」

 

と言うなり店の中に入って上司らしき人を連れてきた。

 

「お泊りはどちらですか?」

 

「枕崎ステーションホテルです」

 

「それなら、一福が近いからいいかな」

 

店から持ってきた街中ガイドマップを見せながら案内してくれる。

 

「一福ですか?」

 

「ええ、まあそこなら一応大丈夫なんで」

 

「ありがとうございます」

 

「お客さん、どちらから?自転車ですか」

 

「ええ、今日は鹿児島市から走ってきました。今回の旅は志布志から走り始めて佐多岬でおととい1泊して、昨日は佐多岬から桜島経由で鹿児島市に泊まって、今日はここ枕崎市に泊まらせていただきます」

 

「そらたいしたもんや」

 

「明日の朝、枕崎駅から帰ります。長野県、信州へ」

 

「そらまた遠いところですね」

 

 いつもの「お約束コミュニケーション」を終えて地場産業振興センターをあとにした。いや、まてよ、あの建物はホントに地場産業振興センターという行政事務所で、その1階に売店が間借りしているってこともありうるな。

 

 なんてことを考えて走るとすぐに枕崎ステーションホテルにたどり着く。

 

 ホテルは枕崎駅の真ん前にあり、まさにステーションホテル。でもまだ時間があるな。よし、チェックインする前に日本鉄道南端の終着・始発駅、枕崎駅を探検しよう。

 

 駅舎とその周辺はまったく“新品”だった。構内にある駅舎完成記念プレートによると、この駅舎は平成25年(2013428日に落成したとのこと。どおりで新品のはずだ。

 

 ホームに入って端から端まで歩いていろいろ撮影する。

 と、レールエンドの脇に撮影ポイントとそれを写すための「カメラ台」を発見。早速カメラを置いてセルフタイマーで日本最南端のレールと枕崎駅をバックに写真を撮る。

 駅舎のあるひとつの窓の脇に「トリックアート」と案内がある。

 

「ほう、なんだろ」

 

とその窓から駅前広場を覗くと北から見下ろす形になる鹿児島県の地図がある。

  

「ほー、なるほど」

 

その窓から見ると海岸線や枕崎の位置を示す灯台が浮き上がって見えるのだった。

 

駅舎の天井からは海幸彦の像が見下ろし、その説明書きは「海幸彦が枕崎駅に降臨」とある。ホームの待合席の後ろには「南と北の始発・終着駅 枕崎・・・稚内 友好都市提携平成24428」の看板もあった。

 

でも、やっぱり一番強烈だったのは枕崎駅列車発車時刻表。

だって、始発が610分発、次の列車が737分発、でその次がなんと1318分発!

えっ? 朝737分に乗り損なうと次の列車まで5時間19分もあるの?

 

枕崎駅、恐るべし。私は明日737分発に乗らなければならない。

 

駅探検を終えて少しだけ周辺を自転車で探索する。と、地場産業振興センターで教えてくれた「一福」が駅前に、駅前を通り過ぎて少し南に行くと銭湯があった。わずかな駅前探索を終えて枕崎ステーションホテルへ。

 

ホテルの前で自転車を輪行袋に収めた。午後520分。

 

 あれ? ハンドル右側のバーテープエンドのキャップがなくなっている。いつなくなったんだろう。気が付かなかったなぁ。

 

あ、フレームの底に桜島の火山灰が少しこびりついている。それではホンのわずかではございますが桜島をつれて帰りましょう。

 

ハンドルバーテープの右側面が真っ黒だ。汚れたなぁ。バーテープは旅の直前に新品に代えたけど、旅は汚れるモノだしなぁ。新品交換は早まったかなあ。

 

ああっ!でもこの汚れ!松山さんの軽トラに載せた時の汚れだ!真っ黒だ!これはいいぞ。これを見るたびに松山さんを思い出せる。

 

そんなことを思いながら輪行袋に自転車を収納する。そんな作業をする駅前通りに通行人はない。遠くを眺めても人影はまったく発見できなかった。

 

 

まちの湯 ひとっ風呂

 

チェックインをして明日の朝食を確認すると7時からとのこと。

 

「明日、737分発の電車に乗らなきゃならないんですが…」

 

  「10分前くらいには始まりますので大丈夫かと思います」

 

 と女性のフロント担当。

 

 「だって、737分逃したら、次は1318分ですよね」

  

 「すみません。本数少ないんですよねぇ」

 

  「モノ凄いインパクトある時刻表でビックリしました」

 

  「すみません。そうなんです(笑)」

 

 「あの、ちょっと大きな荷物(輪行袋を指して)がありまして、部屋へあげますが、いいですか?」

 

 「ええ、かまいませんが、こちらに置いておくスペースがありますので、どうぞお使いください」

 

 フロントウーマンは階段下のスペースに案内してくれた。コインランドリーの場所なども教えてもらいルームキーを受け取ると、

 

「実はすぐそこに銭湯がありまして、このチケットを持って行きますと320円で入ることができます。シャンプー、ボディソープなどの入浴セットはこちらでお貸しいたしますので、タオルはお部屋のものをお使いいただきます。いかがでしょうか。お部屋にはもちろんユニットバスがありますが…」

  

「銭湯ですか、ああ、実はさっき見つけましてね。あそこにありましたね。いいですね。ぜひお願いします」

  

「それでは行かれる時にお声をお掛けください」

  

 旅の最終日に大きな湯船とはなんともありがたい。雨に降られなかった今日はチェックイン後の支度も簡単だ。洗濯物をコインランドリーにぶち込んで、フロントで大きなボトルのシャンプー、ボディソープ、トリートメント入りのカゴと割引チケットを受け取り、スパッと銭湯へGO! 

 

 枕崎の銭湯「まちの湯 ひとっ風呂(ぷろ)」は徒歩2分ほどで着。チケットと320円を出して入場。通常入浴料金は390円。

 

時間が早いのか誰もいない。おお、このお風呂独り占めかぁ?! おまけに「今月の薬湯は宝寿湯です」とか案内が貼ってあり、十数の薬草の写真がいかにも効能ありそうな感じじゃあありませんか。

 

 ますはジャグジー湯にゆっくりと手足を伸ばして浸かり、次に薬湯「宝寿湯」に入れば言うことなし。のんびりとゆっくりと今回の大冒険を振り返ることができたのであった。

 

 

枕崎の夜

 

 いったん宿に戻ってから一福に向かう。すると枕崎駅に列車が入っているではないか。

 

 1833分発の列車だ。高校生たちがほんの数人たむろして、何やらせわしく話をしている。何を言っているのかまったく聞こえないが、聞こえたとして南薩摩の言葉を聞き取れるのだろうか。

 

  黄昏時から一気に夕闇が濃くなりいかにも別れの時間となっていく。

 日本鉄道最南端の始発駅からまもなく列車が出る。

 女子高校生が友達に手を振って列車に飛び乗る。

 ディーゼルエンジンが唸りを上げてスタートスタンバイをする。

 どこからか走ってきた高校生がぎりぎりセーフの態でさらに飛び乗る。

 でも、車両の乗客は5人だけ。列車のライトが妙にまぶしい。

 

何もかもがドラマチックだ。

 

でも、それは私が旅人だからだろう。

高校生たちは普段の日常を過ごしているだけ。

列車は寸分の狂いもなく定時でいつのもとおり発車する。

そして、いつものように赤いテールランプがすーっと駅から離れていく。

 

左へカーブして行く赤いランプが消えるまで最終列車を見送って、それから一福へ向かった。

 

 さて、一福では「ぶえん鰹」をいただいた。

 

持って来てくれたお姉さんに

 

「ぶえん鰹って何?」 

 

と聞けば、

 

昔、冷凍技術がない頃は鰹を日持ちさせて輸送するのに塩漬けを用いた。ゆえに鰹はどこへ運ばれても塩抜きをしなければならなかった。

 

しかし、枕崎は水揚げされた新鮮な鰹がすぐに刺身でいただける。

 

つまり、無塩でいただける。ぶえんは無塩がなまったもの。ぶえん鰹は無塩鰹であり、いつしか新鮮最高級の鰹をぶえん鰹と呼ぶようになったとのこと。

 

  なるほどなるほど、ぶえん鰹ですかぁ。南九州独特の甘い醤油で美味しくいただく。

  

 ほかには「腹皮の塩焼き」がおススメとのこと。いわゆる腹の一番下の部分の塩焼きで、これもおいしくいただいた。

  

 あとはネットで知った「鰹ラーメン」で〆る(しめる)しかない。

  

 一福に鰹ラーメンはなく、お姉さんに聞くと数分歩いた「だいこく」という店が良いとのこと。

 

「手前の交差点に“愛助堂”っていう店もありますが、“だいこく”の方がおいしいと思いますよ」

 

と大変親切(^^;)に教えてくれた。

 

  枕崎の夜の街をお散歩して5分、「だいこく」に到着した。時間はえ~っと8時ころだったろうか。それにしても誰も歩いていない。

 

 街に人っ子ひとりいやしない。

 だいこくの店もお客は私ひとりだけ。明日は休日(秋分の日)なのに。

 

 しかし、このお店は枕崎の有名店らしい。芸能人・グルメレポーターのサイン色紙が何枚もある。

  

「いらっしゃ~い!」の師匠とか、「宝石箱や~」の人。「そんなのかんけーねー!」の人やら、「金麦~!」の女優さん。おお!大相撲の行司最高位の人もいる。皆さんここで枕崎自慢の鰹料理を美味しくいただいたようだ。

 

 さっそく、かつおラーメン(700円)をいただく。

  ほ~~っ、なるほど、出汁がしっかりと鰹節の味と香り。

 

トッピングには鰹の天ぷらと、ひときわ赤く輝いているのは…ヅケだ。さっぱりした塩味、鰹の風味がしてまったくクセがない。

 

これは美味い。

 

お酒の〆(しめ)にはうってつけ。これはいい。なるほど、これなら枕崎名物。間違いない。

 

  大変美味しい鰹ラーメンで〆てからホテルに戻る。

 

その途中、ホテルの隣のビルに何やら展示があるのを発見した。

薄暗い中見てみると、廃線となった枕崎駅からの延長線「南薩線」の記憶と記録のミニミュージアムだった。

 

南薩線は薩摩半島の日本海側をここ枕崎駅から鹿児島県日置市の鹿児島本線伊集院駅まで結んでいた鉄道で、昭和59年(1984)に廃線となったとのこと。

 

当時の写真や道具などが展示されている。誰も通らない街角でしばしの地元学習タイム。これも悪くない。

 

ホテルに戻ると9時ころ。明日は朝が早いがなんだかんだで10時ころ眠ったと思う。

 

で、本日の走行距離等データですが、鹿児島市の東横イン出発時にサイコンをリセットし忘れ、なおかつ帰宅後にそのデータも控え忘れたため、22日の走行データがありません。

 

ああ失敗した。仕方ないので以下のとおりとしておきます。

 

 【本日のデータ(ネット計測と勘による)】

 走行距離:102.5km(ネット計測)

 平均時速:19km/hくらい 

 最高速度:54km/hくらい

 走行時間:5時間くらい(タイヤが回っていた時間)

所用時間:午前900分~午後520分(8時間20分:旅をした時間)

 

 

 923日(火)JR大輪行

         ~日本鉄道最南端枕崎駅から信州木曽福島駅まで列車の旅~

  

10時間の大輪行

 

 6時ころ目が覚める。

 今日は1日かけて日本鉄道南の終点&始発の枕崎駅から信州まで輪行で戻る。輪行とは自転車を分解して袋に詰めて列車、バスなどに乗って移動すること。

 

 今日の輪行は、枕崎駅 737分発から木曽福島駅1723分着までのおよそ10時間。まさに1日かけての大輪行だ。

 10時間の輪行はいささか退屈するかなと思ったらさにあらず、写真撮ったりスマホいじったり音楽聞いていたりしたら、なんのストレスもなく大輪行は達成できた。

 

 自転車の旅ではないので備忘録として、この日のできごとを箇条書きしておこう。

 

1 輪行準備万端整え650分に1階ホールへ朝食に向かう。やはり1番乗り。甘い麦味噌の味噌汁と甘い醤油を堪能して美味しくいただく。納豆も甘い醤油でいただくが、なかなかに乙なものであった。

 

2 チェックアウトしてホテルを出る。宿前の儀式(写真撮影)はホテルの人に頼むと時間がかかりそうだったのでセルフタイマーで撮る。

 

3 ホテルは駅の真ん前。輪行袋を担いで徒歩2分。715分枕崎駅到着。

 

4 駅に着くと間もなく列車が来た。するといかにも「乗り鉄」の男性(40代かな?)が列車から飛び出して駅構内中をくまなく撮影しまくるしまくる。

  おそらく指宿温泉に泊まり、この始発列車の往復で枕崎線及び枕崎駅を攻略しに来たのだろう。乗り鉄さんはバシバシ撮りまくってから再び乗車、私のすぐ横の席に座った。

 

5 駅舎の中でノートを広げ、宿題(?)をやっている少年がいた。小学5年生くらいだろうか。

  列車に乗るそぶりはまったくなし。ゆえに近所の子どもと思われたが駅舎で何をしていたのだろう。話しかければ良かった。

 

6 737分発に乗り込んだのは67人。定刻通り日本鉄道南端駅始発列車の旅は始まった。

 

7 適当に写真を撮りながら乗っていたが、停車する駅ホームがあまりにもアバウトというか豪快というか、てきとーというか。それに気づいてから各駅ホームを鹿児島中央駅まで撮る。

 

8 日本鉄道南端駅は枕崎駅。しかし、緯度的に最も南に位置するのは長崎鼻近くの「西大山駅」。到着するとなんと朝にもかかわらず観光バスが駅前にいて観光客がホームにあふれて写真攻撃の嵐。

 

うわーっすげーっって見てたら、もっとすごかったのが枕崎駅に来ていた「乗り鉄」の彼。

  列車の扉が開く瞬間飛び出して、観光客があふれかえるホームの端から端まで脱兎のごとく走りまわり、列車は撮るは、ホームは撮るは、観光客とぶつかるは、観光客に謝るは、頭を下げるは…。

 

 わずか2分ほどの停車時間で西大山駅も攻略し、再乗車して『はぁ、はぁ』と息を切らせている乗り鉄さんに心から脱帽。

 

9 山川駅に入るとほかの列車がいる。駅員に聞くと「鹿児島中央駅へ行くならあの列車に乗り換えた方がいい」とのことなので乗換える。

 

 ここであの乗り鉄さんとはさようなら。駅ホームの端にバナナの木があり「スズメバチに注意」の看板がぶら下がっていた。なるほど、さぞかし甘いバナナになるのだろう。

 

 10 指宿駅を発車し次の駅に着くと「にがつでん」と書かれた駅名看板の前に停車した。「にがつでん」何やら神秘的な感じ。

 どんな字を書くのだろう。まさか「二月田」じゃねえよなと思っていたら、やっぱ二月田だった。2月に田んぼが始まるところなのか??それはそれで不思議だった。

 

11 鹿児島湾のむこうに桜島が見え、その桜島が家並みで見えなくなって鹿児島中央駅に着く。初めての九州新幹線。こいつが登場しなければ九州の旅はもっと大変だったろう。枕崎から信州伊那まで、おそらく1415時間はかかったのではないか。

 

12 九州新幹線の九州~中国地方~近畿はなんだかあっという間だった。書くことがない。

 

13 九州新幹線が新大阪駅1444分着、東海道新幹線は1450分発。輪行袋背負ってのこの乗り換えは、なかなか大変だったがなんとかクリア。これをクリアしないと名古屋発16時の特急しなのに間に合わない。この1450分発を逃すと名古屋駅で中途パンパな1時間を過ごすことになるのだ。

 

14 新大阪ですいていた席も京都駅で外国人観光客がドカドカと乗り込んできた。さすが京都。でも、新大阪~名古屋はあっという間。

 

15 名古屋での乗換えは少しだけ時間があり中央線ホームにある「住よし」で「きしめん」をいただく。これは名古屋駅に来た時のお約束。

 

 チケット自販機で私の前の人の千円札が何度入れても戻ってきてしまう。時間はあまりない。私は食べるのが遅いのだ。ついイライラが表情に出てしまい、前に人に順番を譲ってもらった。急いで食べたのだが、結局その人より食べ終わりはやっぱり遅かった。

 

旅の終わり

 

 12分ほどの時間を見ながら特急しなののフロントフェイスの撮影に行く。すると珍しくフロントフェイスの洗顔中。

 わずかな時間でも少し頑張って珍しい絵が撮れて良かった。名古屋駅1600分発「特急しなの」は定刻通り発車した。

 

 名古屋から信州へ向かう「特急しなの」はいつも寂しい。

 黄昏時に向かって走る寂しさと、旅という特別な時間が終わる寂しさ。日本海岸線自転車の旅を続けて24年、西日本から帰るときはいつも名古屋からの「特急しなの」。

 夕暮れ時の列車と郷愁と寂しさはいつも一緒にある。

 

 木曽福島駅に着き1日中乗り続けた列車から降りてその列車をホームで見送る。自宅に着いたわけではないのに「旅が終わった」という感慨にとらわれる。

 

 去っていく列車は旅の象徴。いや旅そのものだ。あの列車から降りたことはこの旅から降りたということ。去っていく列車は旅が去って行ったということ。

 

 楽しい時間、楽しい空間から、なんだか一人だけ放り出された、仲間はずれにされた、そんな感じ。赤いテールランプを見送り、まったく静かになったホームでいつもそう思う。

 

 後日、大隅半島の佐多で助けていただいた松山さんにはリンゴを送った。

 お送りするため、ご自宅に電話するとあの元気のよいお母さんが

 

 「あら~、あの時のぉ。ご無事でしたかぁ」

 

 リンゴを送るために住所を教えてもらいたいと伝えると

 

 「そんなぁ、ええですよぉ。そんな気い使わないでぇ」

 

 相変わらずうれしいほど元気が良い。いつまでもお元気でと願うばかりである。

 

 一人旅となった鹿児島の旅。でも、一人旅も悪くないなぁ、と思いながら思い出を記す。

 

平成261017日 午後1026

 

 後日、松山さんの奥様からハガキが届いた。

 

 『拝啓 十一月も半ばになってこちらも朝晩は秋らしい冷たい風が身に染みる今日この頃 長野では紅葉の美しいころでしょうか それとももう冬支度でしょうか 牧田様 先日は味も香りも最高のリンゴを有りがとう御座いました。 本当に美味しかったです。気づかいをさせてしまい申し訳ない限りです 後になって住所を伝えた事 後悔していしまいました これからも牧田様がお元気で又機会がありましたら佐多岬にも訪ねてくださいますよう いつまでもご健康であられますように… かしこ』

 

本当にうれしく、本当にありがたい出会いとなった松山さんご夫妻。

もしかすると今日も道に迷った旅人の案内をしているかもしれない。

いつまでもお元気でいて欲しい。

平成261120日 午後1911