すみません。結論から申します。わかりません。
かつての信濃国の「伊那郡」、現在の長野県上伊那郡と下伊那郡の地域が、何故「いな」と呼ばれるのか…。かなり調べたつもりですが、いまのところ確たる有力な説が見いだせません。
つまり、なぜ「いな」と言う地名が起こったのか、その根源的なことはわからないのです。
上伊那郡または上伊那、下伊那郡または飯田下伊那・飯伊と呼ばれる地域は、明治の初めまでは二つまとめて「伊那」または「伊那郡」と呼ばれていました。
信州の南に位置し、西に木曽山脈、東に赤石山脈、中を流れる天竜川が形成する南北100㎞に渡る広い地域。そこがなぜ「いな」と呼ばれるようになったのか…。今のところ誰もがうなずき納得する決定的な説はないのです。
でも、現在の伊那市がなぜ「いな」と呼ばれるに至ったのか? それには面白い説があります。そして、私は今その説を猛烈に支持しています。
ここでは、現在の長野県伊那市がどうして伊那市にと言う名前になったのかをご紹介します。
さて実は、
10世紀中ごろまで現在の伊那市街のあるところは諏訪郡だったと考えられています。なぜならその証拠に、10世紀中ごろの「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」という文書(「もんじょ」と読んでくださいね)には、「諏訪郡弖良郷(すわぐんてらごう)」と「伊那郡福智郷(いなぐんふくちごう)」が見られるからです。
諏訪郡弖良郷は現在の伊那市手良(てら)地区、そして伊那郡福智郷は現在の伊那市富県(とみがた)福地地区で、今は同じ伊那市内の地区です。
しかし1000年前は北側の弖良は諏訪郡、南側の福智は伊那郡であり、両地区の間に境界線があったわけです。
そしてその境界線は、
赤石山脈から流れ出て東から西へ流れて天竜川と合流する三峰川(みぶかわ)。
さらに木曽山脈から発して西から東へと流れ下り、三峰川と同じ場所で天竜川に合流する小黒川(おぐろがわ)。
このふたつの川が1000年前の諏訪郡と伊那郡の境界線だったと考えられるのです。
この境界に伊那市の「伊那」という地名の因縁、始まりが見られるのです。
さて、
地名変更(平成20(2008)年8月4日)により今は小さく隠れてしまいましたが、伊那市街の中心部にはそれまで堂々と「伊那部(いなべ)」という地名がありました。コレが肝心です。
海辺、浜辺などの言葉に残っているとおり、「べ」という言葉は「~の辺り」「~近く」「~のへん」と言う言葉です。これは古語辞典にも載っています。
つまり、伊那市の伊那部(いなべ)は、本来は「伊那辺」であり、かつて諏訪郡だった千年の昔、最も伊那に近い辺りを意味する「伊那の近く」「伊那のへん」「伊那の辺り」つまり「伊那辺(いなべ)」だったと言うことです。
10世紀中頃、諏訪郡であった現在の伊那市街は「伊那に一番近いところ」という意味合いから「伊那辺(いなべ)」と呼ばれるようになり、東西に走る「三峰川~小黒川ライン」のすぐ北側は、平成20年(2008)8月まで「伊那部」として、その地名は1000年間残っていたのです。
(正確に言うと伊那部という地名は今もあります。小さくなってかくれています)
ちなみに、漢字が「伊那辺」ではなく「伊那部」であることはなんら問題ありません。
日本語は活字による表記がスタンダードとなるまで、地名や人名などの表記は書き手によって当て字により千差万別に書かれることが普通でした。日本語千数百年の歴史のうち地名人名を決まった文字(活字)で書くルールとなってからまだ100年くらいしか経っていないのです。
また、古文書には伊那部を「鋳鍋」と書いてあるモノがあります。ゆえに間違いなく昔から伊那部は「いなべ」だったことが逆に証明されます。「音 on 」つまり読み方は時代が違っても変わらないことが多いのですね。
経過の証明は無理でしょうが、書き手によって千差万別に書かれた「伊那辺」「鋳鍋」「伊那部」たちは明治になり現在につながる戸籍制度が確立されてから「伊那部」に確定されたのです。
…ところで、この「鋳鍋」ですが、不勉強の私は長い間「鋳鍋」を「鋳物の鍋」だと思っていました。しかし、戦国時代の大決戦地、長篠城と設楽ヶ原へ見学に行ったとき、設楽ヶ原歴史資料館で「鋳鍋」を発見し学習しました。鋳鍋とは「火縄銃の弾を作るために鉛を溶かす道具」のことなのです。勉強になりました。
次は「伊那部」がどのように「伊那」になったのか。それを下の図「伊那市の変遷」 を見ていただきながら説明しましょう。
平成18年(2006)3月31日を期限とした「平成の大合併」が大きく話題になった頃、「日本では過去に2回の大合併が政府主導で行われた」とニュースで言っていたことを覚えていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。
その2回とは「明治の大合併」と「昭和の大合併」と言われるものです。
「伊那市の変遷」のほぼ左側半分は、明治時代に行われた「明治の大合併」の変遷であり、右側の昭和29年(1954)4月1日に伊那市が誕生したのが「昭和の大合併」です。
さて、表の一番左に並んでいるのが江戸時代の伊那市エリアの村々です。そして、野底村から西町村までが1000年前から伊那部と呼ばれていたエリアです。
その伊那部エリアでの明治の大合併の際(明治5年・6年(1872・1873))に、天竜川を挟んで東側に「東伊那部村」が、そして西側に「西伊那部村」が登場します。
これが、逆に現在の伊那市街が天竜川の東西含めて伊那部エリアだった事を示す証拠です。(左に並ぶ村々の前に東伊那部村、西伊那部村があったという資料もあります)
そして次に天竜川西側で、山寺村、御園村、西伊那部村の合併したときに、「部」を取り去った「伊那村」が誕生します(明治7年(1874)11月25日)。
伊那部から「部」を取った経過は不明ですが、ここに伊那市という名前が誕生する「芽」が出たと言って差し支えありません。
そして、天竜川西側にわずかに遅れて、明治8(1875)年1月23日、天竜川東側の村々が合併し「伊那部村」が誕生します。
こうして古代1000年前から「いなべ」と呼ばれてきたエリアは、天竜川を挟んだ西側が伊那村、東側が伊那部村となり、明治22年(1889)4月1日にはこの両村が合併して「伊那村」となりました。これで伊那市誕生の素地ができたのです。
あとは図をご覧の通り、伊那村は明治30(1897)年10月15日に町となり、昭和の大合併を受けて昭和29(1954)年4月1日に伊那市が誕生します。
平成20年(2008)8月4日まで、伊那市の住所に「伊那市伊那」と「伊那市伊那部」がありましたが、これは明治7年(1874)、8年(1875)にできた伊那村と伊那部村以来130年も続いた明治の大合併の名残でした。
ところで、明治7(1874)年11月25日、西伊那部村、御園村、山寺村が合併するときに、なぜ伊那部から部を取り去って伊那村としたのか? この経過は今のところ謎です。
まったくの想像ですが、一年遅れの合併となった天竜川東側の東伊那部村との何らかの綱引きがあったのか、それとも「部を取り去って伊那村とすりゃあ、あたかも伊那郡の中心地のようじゃねえか」という“野望”があったのかもしれません(笑)。
ちなみに、伊那村を名乗った地区は実はほかにもあります。
伊那市の隣、現在の駒ケ根市中沢地区の一部にも明治期に伊那村が存在しました。そこは現在でも東伊那という地名が残る地区です。
ここもなぜ伊那村としたのか、その理由は不明です。ただ、現代となり戸籍の業務上において駒ケ根市の伊那村戸籍の請求が伊那市に来ることは日常茶飯事となっており、ちょっとした混乱が発生することもあります。
現在あたかも南信州の伊那谷、伊那地方の中心地の如く「伊那市」と名乗っているこの場所が、1000年前は諏訪郡の最辺境地の「いなべ」であったとは、実におもしろいことです。
この説は同人誌「伊那路」第52巻4号(2008年4月号)に御子柴泰正氏が、「古代における伊那郡と諏訪郡の郡界について-伊那部・諏訪型地名による考察-」にて発表されています。
私はこの説を猛烈に支持しています。
と言うことで、もともとは辺境地のくせに今となってはあたかも伊那の中心地かのように名乗っている伊那市のお話でした。
最後に「どうして伊那は「いな」っていうの?」について無責任な想像をひとつ。
私が気になるのは地名の「音on」です。
それは、日本語が根源的なものの方が音が少ないことと言うことです。つまり、毛、目、血、手、など基本的なモノの音が少ないことです。天、地、野、原、川、山、海、なども同様で日本語の特徴の一つに根源的なモノの音は少ないのです。
そうして考えると、伊那、木曽、諏訪、佐久、といった2音で表現される信濃における地名も根源的なモノではないかと…。
伊那は稲ina、木曽は木ki、諏訪は水sui、佐久は柵sakuなどと因縁があるのでは・・・と、妄想するのです。・・・答えの出ない妄想です。
平成30年1月31日(初稿平成20年)