市村久蔵の譲り状

~古田人形 上古田に人形浄瑠璃を伝えた操師たち~

 

 

長野県上伊那郡箕輪町の上古田(かみふるた)集落には、江戸時代の昔より人形浄瑠璃が伝えられている。それを古田人形と呼ぶ。

そして、その古田人形がはじまったのは、享保14年(1729)だという史料が下記のように残っている。

 

「乍恐以書付奉願上候口上之覚」

信州伊那郡上古田之儀例年八月九日氏神白山明神之祭礼日ニ而村方若き者共操仕来り申候訳、乍恐左ニ奉申上候

一、享保十四酉年大草太郎左右衛門様御代官所之節まで年々戌亥嵐し列敷殊北下りの土地ニ付田畑諸作物風損ニ而百姓共飢渇ニ及ひ難渋仕候ニ付与風存付村方氏神江風除之祈願ニいたし人形等買求其節之若き者共打集り操真似仕り夫年々祈願ニ仕候処自然と悪風なるく罷成候付(以下略)

 

【意訳】 

「恐れながら書を以て願い上げ奉り候口上の覚え(おそれながらしょをもってねがいあげたてまつりそうろうこうじょうのおぼえ)」

信州伊那郡上古田では、例年8月9日に氏神様である白山明神の祭礼日に、村方の若者が人形あやつりして来ましたが、その訳を左記に申し上げます。

一、享保14年(1729)、大草太郎左右衛門様が御代官所に赴任していた時まで年々北西の嵐が激しく、特に北下りの土地は田畑や諸作物が風害にあい、百姓たちは飢えに苦しみました。そこで風を治めるため、村の氏神様へ風除け祈願をしました。人形等を買い求めその時の若者は集って人形操りの真似ごとをし、よって年々祈願していたところ自然と悪風はなくなりました。

 

長い文書なので、以下略した内容をごくごく簡略に続ければ…

 

それから、凶作・干ばつ・水害などの年は9年間奉納できず、また人寄騒事(大勢が寄り集まって騒ぐこと)は御法度なので近年は正月の一夜だけ百姓宅で日待操りをしており、享保14年から当年まで79年間続けてまいりました。

そして、今年は田畑共に出穂が遅れており不作のようですから、来年は豊作になるように風除け祈願として三番叟を行うことを許可してください。

 

  伊那郡上古田村

  名主 五左衛門

  与頭 助右衛門

  百姓代 六右衛門

  年寄 喜兵衛

  同断 元右衛門

松本 御役所

 

この書面は文化四年(1807)八月、風よけ祈願のために三番叟(さんばそう=人形浄瑠璃の演目、天下太平を願う出し物)の上演許可願いを松本の役所へ届け出たものである。

多少の追加説明をすれば、彼らの上古田を含むその地方一帯は信濃国伊那郡箕輪領と総称され、その箕輪領は天領(幕府直轄地)であったため「松本御役所(松本にあった幕府の役所)」に届け出をしており、また、「日待操り=ひまちあやつり」というのは、旧暦の正月、五月、九月の吉日に寝ないで日の出を待って拝む行事「日待ち」に行う人形操りと言うことである。(“日待ち”は江戸時代に流行った宗教的な意味も加味した庶民娯楽の一種)

つまりこれは、文化4年までの当時、古田人形は正月の一夜だけ「日待ち」により行われていたが、不作が心配されるので来年は本来どおり、神社にて奉納させてくれ。という嘆願書なのだ。

(もっともこの文書だけ見れば村人達は「日待ち操り」だけをひかえめにやっていたと見えるが、その実は享和2年(1802)には「成四月七日ヨリ晴天四日辰野村於七蔵寺興業仕候」という記録もある。村人はしたたかなのだ)

 

このときの願いは許可され、翌文化5年には盛大に三番叟が奉納されたと思われる。

…思われる。というのは、私がこのハナシの史料としている「箕輪町史」と「無形文化財調査資料 古田人形 箕輪町教育委員会」には、文化5年の奉納を伝える文書等がないからだ。

 しかし、この文化5年の奉納はとてつもなく素晴らしかっただろうことは、まず間違いない。なぜならその翌年文化6年(1809)2月には、隣接の高遠藩に特に懇願されて高遠城内の勘助郭(かんんすけぐるわ)にて興行を行っているからだ。

そしてその興業も大成功を納め「御奉行様より御酒頂戴、礼金二両受取也」と「年々日記」という文書に残っている。

それは、前述の「乍恐以書付奉願上候口上之覚」に見られるとおり、それまでは表向きは村の中だけで、しかも正月の一夜だけ「日待操り」で密やかに行われていた上古田の人形操りが、その素晴らしさを堂々と世間に示したその時であった。

 

そして、その時の座頭が 市村久蔵 なのである。

 

久蔵は安永(1772~1780)のころ上古田に来たらしい。久蔵は上古田の大庄屋「大板屋」に借地して家を建てて住み、人形操りを教えながら江戸より雛人形を取り寄せて売って暮らしていたとのことだ。 

今日では山麓の静かな田舎のたたずまいの上古田であるが、江戸時代には「中馬=ちゅうま」という馬を使った運送業で栄えた集落である。久蔵が借地した大板屋は今でもその時代の多くの関係資料を残す名家であり、その当時は近隣に知られた中馬の親方であった。

上古田が大板屋を中心に栄えたのは事実であるが、当然その暮らしが現代社会のような消費生活であったわけではない。久蔵の暮らしが雛人形の商いだけで成り立っていたとは到底思われず、大板屋の手伝いやら百姓の手伝いやらをして暮らしていたのではないだろうか。

久蔵は淡路出身の人形遣いで、古田人形が本格的な物になっていったのは彼のような淡路出身の人形遣いたちが流れてきてからであった。 

久蔵たち人形遣いがはるばる信州まで流れて来るには、当時の社会情勢が大きく影響していたと思われる事が下記の文書からもうかがわれる。

 

「寛保三亥年祭礼操之由来記文政七申年二月迄 上古田村 茂蔵相記」

抑当時氏神祭礼神諌之操元祖与申候は寛保三年何国(1通に「上方より」)之者ニ候哉茂八与申者参り暫致逗留、段々咄承り依之、宇兵衛、友弥、与右衛門、長兵衛、権六、五人ニ而談事致し村役元江茂相願、然処名古屋ニ古道具之質流有之由聞及、右四人ニ而壱人ニ付金壱両二分ツツ出金いたし余は他借仕、名古屋ニ獅子太鼓人形道具一件買求祭礼ニ操相始申候…(以下略)…」

 

【意訳】

「寛保3年から祭礼の人形操りの由来を記す。文政7年(1824)二月まで。上古田村 茂蔵が書き留める」

そもそも氏神の祭礼にて神を諌めた人形操りの元祖は、寛保3年(1743)に、どこの国の者か(一説に上方の者)茂八と言う者が来て、しばらく逗留し、段々に話を聞いたところ、名古屋に古道具の質流れがあると聞き、宇兵衛、友弥、与右衛門、長兵衛、権六の五人で相談し、村役へも願い出た。右の四人一人につき金一両二分づつ出しその他は借金をし、名古屋にて獅子、太鼓、人形道具一式を購入して祭礼の人形操りを始めた

 

この文書は人形操り、つまりは古田人形の始まりを記す一文であり、最初に示した「乍恐以書付奉願上候口上之覚」と共に考察すれば、享保14年(1729)から寛保3年(1743)までに古田人形は盛んになってきたことがわかる。

そして、もう一つこの文書で確認され注目されることは「名古屋ニ古道具之質流有之由聞及」の一節である。つまり、その当時人形浄瑠璃の道具は「質流れ」の状態であったのだ。

当時、上方では歌舞伎がエンターテイメントの主役に躍り出ており、人形浄瑠璃は客を奪われて衰退の一途をたどっていた。浄瑠璃(唄い=太夫(たゆう)=ストーリーテラー)や三味線弾きはそのまま歌舞伎に転職できた。しかし、人形遣いは転身する術もなく路頭に迷こととなる。

 人形を質に入れ、しばし日々の暮らしをしのごうとしたのか、それとも人形遣いをあきらめて流れることを承知で質に入れてしまったのか…。

上方、つまりは都会で職を失った人形遣いたちは、こうして地方に活路を見出していくこととなったのである。

 

そして、久蔵もそうした人形遣いの一人であった。

 

都会に職を失った久蔵たち(人形操り師たち)はちりぢりに地方へ流れ、全国中を渡り歩いた。

操り師ばかりだから一座を仕立てて移動することはもちろんできない。そして操り師ばかり大勢で地方へ行っても全員に仕事があるとは思われない。

彼らはそれぞれの人形や道具を行李に詰め、一人、二人といったごくごく少人数で旅をした。そして、そのいつ尽きるともわからない旅路の拠り所として、必ず「秘書」をたずさえて旅していたのだった。

その「秘書」とは、巻物36巻からなる「道薫坊伝記=どうくんぼうでんき」といい、彼らは桐の箱などに入れて大切に持ち歩いた。

 

そしてその内容は、淡路人形の発祥説話を説いた次のようなものである。

 

「道薫坊伝記」

 ある日、蛭児(ひるこ)が和田岬の沖合で光っているのを邑君(むらきみ)という漁師が見つけた。光の奥に2~3歳くらいの神の子があり「我は蛭児だ、海浜に仮宮を建てよ」と神託した。

そこで建てたのが後の西宮大明神である。この宮に道薫坊(どうくんぼう)という人がいて、蛭児によく仕え神慮にかなって世の中は太平であった。

しかし、道薫坊が死んでからは神を慰めるものがいなくなったため、漁も不振、陸も海も不穏な状態になってしまった。

そこで百太夫という人がそのことを藤原長者(近衛殿)告げると勅が下り、百太夫は道薫坊の格好や顔をまねた操人形を作って神を慰めると、世の中が穏やかになった。

百太夫は道薫坊とともに諸国をまわって神を祭った。そして、百太夫と道薫坊はイザナギ・イザナミの国生みの地「淡路島」の三原郡三条村(現三原町)に立ち寄り、その地に足をとどめた術伝え、死後西宮の傍らに葬られた。

大日本は神国である。故に神慮を慰める者を以て、諸芸の首となる。後人はこのことを軽んじてはいけない。軽んじては神慮に背く事である。後人恐るべし。

 

蛭児とはイザナギ・イザナミの最初の子で、不出来であったため舟に乗せられて海に流された子である。そして、その子を和田岬、現在の神戸市の沖合に見つけたところからこの説話ははじまる。

そしてこう説かれ、こう結ばれる。

 

「人形操りは神を慰め諌めるものだ。だから神国日本にあっては人形操りこそナンバーワンである。人形操りを軽んじることは神を恐れぬ所業である。誰もが恐れ敬わなければならないのだ」

 

全国を旅する彼らは人形操りをシャーマニズムに結びつけ、その伝統と権威を強めようとした。そして、そもそも古田人形も天災を治めるためのシャーマニズム(上古田の場合は、戌亥嵐=北西の嵐を治める風除け祈願)がその始まりであるのは、この話の始まりに「乍恐以書付奉願上候口上之覚」にて解説したとおりである。

この「道薫坊伝記」は伊那谷に3つ発見されており、当時人形浄瑠璃が盛んであったことがうかがえる。そして多くの淡路出身と思われる人形遣い達が伊那谷に足を踏み入れたこともうかがえるのだ。

 

文化6年(1809)2月に高遠城内勘助郭にて興業の大成功をおさめた久蔵は同年の11月には病を得て死期を悟る。そして上古田村に秘書「道薫坊伝記」を譲ることとした。

 

市村久蔵譲状

覚 道薫坊之事

一、御輪旨之儀は、先年淡路国江頂戴仕、其写三拾六本ハ国中江弘候而、永久神いさめし操致候様蒙

勅免相勤候証拠之一軸大切ニ守護仕所、相違無御座候而、五拾ヶ年以前、伯父市村六三郎諸国江罷出候節、国本より持参仕、国々は勿論エゾ迄も相渡り操興業仕、又々当国江渡り飯田辺ニおいて老死仕、然所拙者事も三拾ヶ年以前ニ御地に罷越、数年御両公之御世話ニ罷成候所此度病気仕候故、迚も不相叶と存候へ共、世倅事ハ町人ニいたし候得ハ所詮、相続難致存候間右之一軸御譲申度奉存候、何卒幾久敷、道薫坊之一曲御勤被下度候、此段幾重ニも御頼置申度奉存候 以上

 淡州三原郡 市村久蔵 印

  文化六年己巳十一月

   信州伊那上古田村

    治郎右衛門様

    六右衛門様

 

【意訳】

市村久蔵譲り状 覚(おぼえ=記録) 道薫坊のこと

御輪旨(正しくは、綸旨=りんし=天皇のみことのり、お言葉。つまり、道薫坊伝記は綸旨=天皇のお言葉である。という意味)は、その昔、淡路の国にて(天皇より)いただいた物で、その写し36巻は全国に広まり永久に神をいさめる人形操りをするための物である。

そのみことのりを真面目に勤めてきた証拠の巻物を大切に守ってきたことに嘘偽りはありません。

これは50年も昔、伯父の市村六三郎が諸国へ旅立つときに国元(淡路島)から持参した物で、国内はもちろん、遠く蝦夷地(北海道)まで渡って人形操り興業をしてきました。

伯父は当国(信州)へ来て飯田の付近で年を取って亡くなりましたが、その際に私が譲り受けこれまで大切に守ってきました。

そして私も30年前に御当地へ参りここ数年はお二人に御世話になりました。しかし、このたび病気となってしまい、迚も(とても)回復はしないだろうと思っています。

私の息子は町人となりましたので私のあとを継ぐのはとても難しいものと思います。そこで、右に書きました一軸(巻物)をお譲りしたいと思います。

どうか、いつまでもいつまでも道薫坊の話をお勤めくださりますよう。このことは重ねて重ねて頼み置きますので、どうかどうかよろしくお願いいたします。 以上

淡州(淡路の国)三原郡 市村久蔵 印

  文化6年(1809)11月

   信州伊那上古田村

    治郎右衛門様へ

       六右衛門様へ

 

 この遺言を残して久蔵はその翌年文化7年(1810)正月6日に亡くなっている。その墓は今も上古田にあり墓碑には

 

 鏡山徳照善男
  生国淡州三原郡
   俗名 市村久蔵
   文化七庚午年正月六日

 雪応白窓善女

   同八辛未年十二月十五日

 

と刻まれている。

 

 久蔵の享年がいくつだったのかは不明であるが、上古田に居着いたのが40歳くらい、それから30年間そこで暮らしたので70歳くらいではないかと言われている。

これらの事実から推測する一つの仮説をここに示してみたい。実はこの仮説は私が古田人形というテーマを、伊那の地に流れてきた人形遣い市村久蔵にスポットを当てて考察したくなった最大の理由なのである。

それは久蔵の晩年を年表にしてみると明らかになる。

 

文化4年(1807)三番叟奉納を願い出る

文化5年(1808)三番叟奉納を行う

文化6年(1809)2月高遠城勘助郭にて興業

文化7年(1810)正月6日死す

 

つまり、老いた久蔵は文化4年に不作を理由に三番叟奉納を願い出て、それまで正月の一夜にひっそりと行われてきた人形浄瑠璃を信州伊那の地に広く大きく出したかったのではないか。世に示したかったのではないか。

久蔵の狙いは当たり、盛大に奉納した操りは大評判となり高遠城内での興業という伊那の地ではこれ以上はない形で人形浄瑠璃を世に知らしめる事ができ、久蔵はその最晩年に人形遣いとして最後の大輪を咲かせて逝ったのではないか。しかも、自分の思惑どおりに。

文化4年に三番叟奉納を願い出るその背景には、名主たち村役人にそして村人に上古田の人形浄瑠璃は自信を持って広く世間に出して奉納するレベルにある事を説き、正式に奉納すれば神を諌めることができる人形浄瑠璃の正当性と効能を説く久蔵の存在があったのではないか。

 

久蔵の後を追うように翌年亡くなった妻は何という名だったのか、二人はどこで出会い一緒になったのか、二人の上古田での暮らしはどうだったのか。

久蔵が亡くなったとき一人息子が18歳という記録があるところから察するに、どうも久蔵は上古田で妻帯しその子ができたのだろう。

旅の人形操り師は上古田に落ち着き、上古田に骨を埋める決心をし、おそらくは大板屋の世話で土地の女と結婚した。戒名から想像するにその妻は雪のような色の白い女だったのだろうか。

 

彼らはそれなりに幸せに暮らしていたのかもしれない。しかし、淡路島生まれの市村久蔵という名の人形操り師は、信州伊那上古田に来て暮らし、それなりの暮らしをしていたとしても、諸芸の長たる人形操りの誇りと魂を失うことは決してなかったのだ。 

 息子が自分のあとを継がずに町人となってしまったこともあり、自らの魂をうやむやの内に消してしまうことなど到底できなかった久蔵は、彼の最晩年の文化5年から6年というわずか1年間、人形操り師として人形浄瑠璃師として最高の花を咲かせ、そして遺言を残し「秘伝の書」をお世話になった上古田の人に託して死んでいったのではないだろうか。

 

箕輪町史には久蔵の他にも幾人かの人形操り師の名前を散見することができる。

 

久蔵の伯父市村六三郎、上古田に人形遣いの金看板を残し後に現在の下伊那郡豊丘村に移り住んだ森川千賀蔵、寛政年間に下伊那の黒田人形を指導し久蔵と同郷と言うことから上古田の人々とも交流があり上古田から養子をもらった吉田重三郎、久蔵の死後年々寂しくなった上古田の人形浄瑠璃を文政年間にふたたび盛んにした吉田時蔵、そして市村又五郎、市村桂蔵と、その消息は不明だが何人かの淡路出身の人形遣い達が伊那の地に来ていたのだ

 

その後古田人形は人形浄瑠璃がかつて都市部で経験した衰退を同様にたどることとなる。つまり祭りでの主役の座を狂言=村歌舞伎に奪われると言う二の舞を演じたのだ。

そうして明治の頃にはほとんど行われなくなった人形浄瑠璃だったが、上古田の人々は大正13年3月に甲子団という組織で復活させ、その甲子団は現在「古田人形保存会」と名を変えて今に人形浄瑠璃を伝えている。

現在、上古田人形保存会は毎週火曜日に上古田公民館にて練習を重ねており、その構成員には箕輪小学校・中学校古田人形クラブのOB・OGも参加し、箕輪町の町をあげての保存体制がうかがえる。

箕輪町の皆さんの誰もが誇りに思う古田人形の物語は、その演じる外題もさることながら、それに関わってきた人間の物語が私を引きつけてならない。

 

「寛保三亥年祭礼操之由来記文政七申年二月迄上古田村茂蔵相記」の一文にこうある。

 全躰安永之頃より淡州之者市村久蔵申座崩レ当村ニ住居

 だいたい安永の頃より淡路国出身の市村久蔵という座崩れ、当村に住まい居る…

 

市村久蔵を代表とする人形操り師達と村人達の物語は、はるかな時を越えて私の心をとらえ、今も離そうとしない。

 

私が古田人形に興味を持ったとき、とりあえず調査を開始したのが「箕輪町郷土博物館」であった。

古田人形について何も知らない私であったが大変幸運なことに、その博物館の柴登巳夫館長こそが現在の古田人形を支える中心人物だったのである。

柴館長は多忙な公務の傍ら箕輪中学校古田人形クラブの指導を長年続けられ、ご自身も保存会にて太夫をなさっている。

調査資料としていただいた柴館長ご自身の手記(抜粋)を、突然訪問したにもかかわらず快く調査にご協力いただいた感謝の意を込めてここに掲載したい。

 

「当時、この三業のうち浄瑠璃と三味線を一人の方がやっておりました。弾き語りです。大変な高齢で85歳過ぎでした。

この太夫が生きているうちに、浄瑠璃と三味線を修得しなければ、人形座は続かなくなり、大金をかけて人形を修理、新調しても使うことができなくなる。

計画を立案し、スタートしたからには、引き返す事や、途中でやめることなどできないのであります。

最も困難であったのが、浄瑠璃を語る太夫役を見つけ、稽古してもらうことでした。

私より先輩の方々は、高齢の太夫さんが亡くなった時は、古田人形芝居は、それで終わりだ、それで仕方ないと決めていました。私は、その時で終わらせるという訳には、どうしてもいかなかったのであります。

義太夫の後継者が見つからない以上、自分自身でやるしか方法はないと考え、その時30歳そこそこでありましたので、母親に相談しました。

母の親(私の祖父)は、一生を人形芝居と歌舞伎の太夫で過ごした人でした。

母は、自分の親がずっと義太夫の稽古をするところや、芝居の時などを見て育っていましたので、私が、後継者としてやりたいと相談した時、「やりおおせるかえ」続ける事ができるかということを言い、大変なことだと言い、母の口から、やってごらんという答えは返ってきませんでした。

それまで、たいがいのことは、私の言うようになって来たのですが、この事に関してはNOの返事でありました。

しかし、現状は私がその一番の苦労の役回りをするしかない状況でした。毎週1回、高齢の太夫さんの所へ夜通って、義太夫を教えていただく事になり、2年通いました。

その時期に、伊那谷の他の人形三座も、古田と同様な状況で、後継者が無くなり、存続が厳しくなっておりました。昭和50年代の後半でした。」…

 

人形浄瑠璃を守り伝えていく苦労はこうして20年ほど前にもあり、現在も守り伝える努力は続いているのである。

写真は一番人気の外題「傾城阿波の鳴門=けいせいあわのなると」巡礼歌の段の練習風景。

(2003年7月撮影)

上の人形は娘のお鶴。下はその母お弓。お鶴が偶然にも実の母とは知らぬお弓のもとを訪ねる有名な母子対面のシーンである。
 人形は写真の左から「主遣い=おもづかい」「足遣い」「手遣い」の3人の役者(操り師)で操る(ただし、お鶴の写真の一番左は指導者)。

 

現在は毎週火曜日、上古田公民館にて稽古を続けている。会員は25名ほど。大阪文楽劇場や海外公演などの実績もある長野県無形文化財である。

今年(2003)、人形浄瑠璃文楽はユネスコにて世界無形文化財に指定された。

それは東京や大阪のプロの文楽のみならず、こうした地方の人形浄瑠璃も含めた指定であると私は確信する。

昭和54年(1979)には箕輪中学校古田人形保存クラブの活動が始まり後継者の育成がはかられ、平成5年(1993)には古田人形芝居振興協力会も発足し町をあげての協力体制も整ってきている。

久蔵が死の間際に残した譲り状の切なる願いは、200年後の今も上古田、いや箕輪町全体で受け継がれているのだ。

 

…何卒幾久敷、道薫坊之一曲御勤被下度候、

此段幾重ニも御頼置申度奉存候 以上

             淡州三原郡 市村久蔵 印

 

…なにとぞ幾久しく道薫坊の一曲をおつとめくださりたくそうろう。

この段は幾重にもお頼みおき申したくたてまつり存じそうろう。以上。

                      淡州三原郡 市村久蔵

 

平成30年2月5日(初稿は平成15年)